ぶたごやへかえる bk1サイトに連載したコラムぶたの歯ぎしり
★児童書の世界は狭くて自分の意見を述べると嫌がられる。教科書の下請け的な商売もある。教育批判などすると干されます。山中恒さんだけ別格でしたが。児童文学賞はもらえない、課題図書にはならない。まして叙勲などありません。おまけに人気の本でも、増刷されないことがあります。生活に響きます。それで、遠慮しながら書いていたという事情もある。情けない。幸い、78歳ともなれば、年金もいだだいているし、借金は70歳ですべて返済したので、遠慮する必要がないのです。で、昔に返ってかけなかったことをこれからおいおいかきますので、ご期待ください。(2022・6・18。
コラムはインタビューの下にあります。
★bk1が改変されて評論がなくなってしまいましたので、ここで読めるようにしました。(2005/6/6)
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──そんな裏話があったんですね。ところで、『はれときどきぶた』のアイデアはどこから来ているのですか? 矢玉 漫画家時代に朝から晩まで下らないことばかり考えていた時期がありまして、そのときですね。ぶたの4コマ漫画を描いたことがあるんですが、それがきっかけかもしれませんね。 ──その頃は後に「はれぶた」として発表することをお考えでしたか? 矢玉 明確なビジョンは浮かばなかったけど、金稼ぐために下らないことを一生懸命考えていました。あと、笑わせるものを描きたいと思っていましたね。 ──それはなぜですか? 矢玉 笑いっていうのは一瞬で勝負が決まります。真面目なものは、じっくり考えてから感想が出るから、表情を見ただけじゃよく分からないでしょう(笑)。 ──学校の図書館に置かれた「はれぶた」、普通の児童文学書と比べると異質だったでしょうね。 矢玉 異質も異質! 「はれぶた」でも、この表紙からして異質なんですよ。普通の児童文学作家は原稿だけ書いて、あとの絵は編集者にお任せなんです。でも、僕はデザインの仕事をしていましたから、表紙の絵もロゴも全部自分でやりました。「おしいれの中のみこたん」のように、表紙にこんなデカイ顔を書いた本なんてありませんでした。これを許してくれたのは山下明生編集長のふところの大きさで、感謝してます。 ──先生はイラストも全部お一人で? 矢玉 そうです。最近はパソコンも使い始めました。やっぱり早いですからね。 ──童話や絵本などのアイデアは、いつ浮かぶのですか? ふとした瞬間ですか? 矢玉 いや、年がら年中そのことを考えていまするからね。浮かぶという表現がいいかどうかは分からないけど、朝の夢が一番重要ですね。浮かんだらすぐに書き留めておきます。エジソンがアイデアを書き留めるための短い鉛筆をいつも持っていたというけど、俺もいつも携帯しています。わざわざエジソンは短い鉛筆を作らせたんだってね、すごいね。 ──そうですね。ところで矢玉先生は、子供のための本を書くにあたって、どうやって子供の感性に近づいていますか? 矢玉 子供の感性に近づけるというより、自分が子供だったときに読みたい本を目指して書いています。 ──先生はどのような子供だったんですか? 矢玉 俺はまったく人付き合いの下手な子供だし、小学校の通信簿には先生が「分かっているのに発表しない。はがゆい」って書いてあったぐらいだから・・・心臓がパクパクして手が挙げられなかったんですよ。だから不登校児の心がよく分かります。学校というヤクザな組織の組員として生きていくのはたいへんだと思います、。俺みたいにナイーブだと。 ──へー、今は勝手にべらべらしゃべりっぱなしじゃないですか! 矢玉 苦労して鍛えたんですよ、自分を。戦いの連続でした。 政治家でも、企業でも、学者などでも、感性のにぶい人ほど大声を出してボスになったり有名になったりするんですけど、俺は自分と同じように傷つきやすい子が、こんな大人もいるんだな、生きてることは楽しいんだなと思えるような本を書こう、と思ってきました。それが俺の子供時代に、なにかを与えてくれた昔の大人への恩返しにもなるしね。 ──恩返し、いい言葉ですね。あらためて、矢玉先生の作品を読んでみたくなりました。 ■聞き手 さとう 俊 「五時から作家」。海水魚採集家としての長年の経験を活かし、海を舞台にした童話の創作に意欲を燃やす。著書「天国にいちばん近い魚」ほか |
子供は人生の達人 2003/3 今この瞬間をたのしく生きること、今日一日をたのしく生きること。大人にとって も大事なことですが、子供にとっては十倍大事なこと、赤ちゃんや幼児にとっては、 百倍大事なことです。 四歳の子供に五年前の過去はありませんし、未来は壁の向こうです。 大人が、長い人生を生き抜いたあげくに死を意識して、哲学書や文芸書や宗教書 などを読みあさり、人生修行の末にやっと「今を生きる」という境地に達する。 だが幼い子供のだれもが、初めからその境地にある人、人生の達人なのだ。日本で は、昔の大人はそのことを知っていて、子供をそれなりに遇したでしょう。 子供に笑いかけ、子供といっしょに遊び、大人は生きる力をわけてもらう。現代の 大人がこのことをわかっていれば、幼児虐待などありえない。 万葉集にある当時の高級官僚の山上億良の歌「銀(しろがね)も金(くがね)も玉 もなにせむに まされる宝 子にしかめやも」を掲げておけば、「児童の権利」など とわめくことはありません。日本には子供を大事にする豊かな土壌があるのです。 むしろ国立大学の教育学部の教授や、国家から権利を付与された特権階級である弁 護士などが安易に、西洋から輸入した「子ども」「権利」などという旗をふりまわす ことによって事態を悪くしているのではないかという疑問がわきます。 どんな金持ちの家に生まれた子供であっても、子供は子供という名の庶民です。公 園の砂場で遊ぶとき、子供は親の年収や社会的地位を考えてつきあうわけではありま せん。服装で差別するようでは、もはやその子供は子供らしさを奪われたあわれな子 供というしかない。どろべっちゃんになって砂場で遊ぶのに流行のファッションなど 百害あって一利なしです。どろだらけになった子供こそが幸せな子供なのです。 子供は子供どうしで、子供集団の一員であることによって生きる人です。子供仲間 に受け入られ、いっしょに遊び、けんかをして、泣き、笑い、怒り、叫び、感情を ぶっつけあうことによって成長していきます。 現在の子供の不幸は、くだらない教育を受けて小賢しくなっている 大人が、異常に子供に干渉することにあります。子供の一挙手一投足に、まるであや つり人形のように見えない糸で引っ張り、干渉する。 歩き始めた子供が強烈なパンチをくらうのは、交通事故防止のための禁止事項を体 得させられるときです。のんびり歩いていて花を見つけてかけよろうとすると「だ め」「とまれー」と、きびしく命令される。親としては当然の行為なのだが、そのこ とが子供の心に与える悪影響は計り知れないほどです。子供にしてみれば「なんで花 を見ようとかけよっちゃいけないの?なんであんな恐ろしい怪物がいきなり走ってく るの?」と叫びたいはずだ。それをじっと耐える子が、大人にとってはとても(都合 の)いい子です。 毎日毎日「それはだめ」「いけない」といわれて、現代社会に順応するように訓練 を受ける。だが、現代社会はもはや大人にとっても幸せな社会ではない。狂った社会 といえる。狂った社会の基準に従わせられる子供が狂うのは当然です。神経の細やか な子供ほど、社会に順応することは困難です。不登校やひきこもり問題、荒れる思春 期問題などの根本的な解決のためには、まず幼児期、さらに小学校の子供に対して大 人がどうすればいいのかを考えなければなりません。 ほんの一例ですが、高度成長期以降にまったく子供を意識せず、子供の秘密基地を 破壊して、団地、高速道路、高層ビルなどを作ってきたそのツケが子供に回されてい ます。 建築関係では幼稚園やファミリーレストランなど一部をのぞいて、小さな 子供に対する配慮は希薄です。ドアのヒンジ部分に指をはさまれたり、高すぎる便 器、とどかないエレペーターのボタンなどなど枚挙にいとまがない。大事故が起きた ときだけは、おおさわぎしますが、大人はすぐ記憶喪失する。 すべては子供の心を大人が読み取ろうとしないからです。そして読み取った大人 も、子供の代理人として、毅然と発言をしないことが問題を解決できなくしていま す。 第12回 交ぜ書きをなくそう |
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2003/11 「文化審議会国語分科会」が平成15年11月5日に出した答申案は、60年近い戦後の「国語」の歴史に照らしても、画期的なものといえる。 「交ぜ書きをなくす」そのために「常用漢字にルビをふって使う」方針。これは早急に実現したい。小学校教科書のみならず、新聞、出版、商業文などでも、でたらめな日本語表記をただちに改善してもらいたい。 具体化には問題もある。「小学校六年生までに常用漢字1945文字を読めるようにする」という教育方針が決定したとすると、教育界は過剰に反応する。全ての子供に「漢字をまちがいなく読めといい、読めない者は成績の悪いものと認定する」のが教育者だ。 子供たちが、毎日漢字読みの特訓をうけ、テストされる姿が目にうかぶ。 あくまでも「文を読める」ようにするために「漢字が読める」ことが目的だということを忘れないようにしてもらいたい。文から漢字だけを取り出して読ませることには意味がない。前後の関係によって読みが決定するのだから、それは大人でも無理なことだ。 漢字を、子供をいじめる道具にしてはならない。読みの試験をするな。ただ見せればいい。興味がわけば自然に覚える。 ロボットのような教師は、一つの正解だけを強要し、他の解があることをまったく認めないし、知らせることさえしない。 漢字の字体にしても、ハネだの、トメだのを、教科書体では一つに決めてしまった。そしてミリ単位で「出すぎてる」「まがってる」と手本とちがうところに赤を入れて、子供を脅迫するのが教育だとおもっている人も多い。 教科書に難しい漢字を使ったとたんに、教育熱心な親、教師、教育業者は全てを完璧に読めるようにしようとして、教材を作り、子供を漢字地獄に追いやるだろう。 ダイナマイトを発明すると、土木工事にも使うが、人を殺す道具にしてしまうのが人間という愚か者だ。増えた分の漢字は、おもしろい遊びとして待遇し、あせって児童の選別や罰の道具にしないという歯止めをかけたうえで、ただ自由に使えるようにするのが良い。 この答申の「情緒力の育成を国語教育の目標とする」のには異論が出るだろう。 「難しい漢字が読めれば本が読める」というのも変だ。どんな情緒なのか? どんな本を読めといっているのか? 一斉に音読するなどというのも余計だ。戦前回帰の鎧が衣の裾から透けて見える。子供は静かにひとりで感じ、考えることが大事。読書の楽しみはそこにある。 だから、そんなことにはふれないほうがいい。もっと乾いた答申にして、現在の教科書の表記の欠陥を改めることに集中するべきだ。 使いやすい漢字仮名まじり文の見本を示し、言語を使って、考え、意見を作り、発表し、説得する能力を高めることに限定した答申にすべきだ。 教科書には下手な文学作品よりも、実用文を多くのせて、実践的な文章が書けるように訓練するべきだ。これをやらないから、世の中に出たとたんに、インチキな契約書にはんこをおしたり、怪しげな勧誘にだまされたりするのだ。 文を読み書きして養われるものは、考えを広げ、深め、信念を持ち、それを主張し、他人を説得する力なのだ。 今までの教育は、子供からそれを奪ってきた。よけいなことは考えるなといわれ、他人の信念を受け取り、自分の意見は出さず、他人から説得されやすい者が成績優秀者とされてきた。国語教育改革は、これを是正することにこそ意味がある。 答申案は交ぜ書きにふれたのだから「子ども」表記の是正にもふれるべきだ。これを避けるのなら、この文化審議会国語文化会(会長・北原保雄筑波大学長)は無定見無責任というしかない。 『心のきれはし 教育されちまった悲しみに魂が泣いている』(ポプラ社)にも関連事項があるので参考に。 |
第13回 三浦糞樽君の人生はどうなる?(最終回) |
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2004/6 最終回となってしまったので、あらためて第一回から読み直してみて、ネット上のコラムの役目と、その効果について考えるのだが、資料が少ない。何人の人が読んでくれたのかさえもわからない。 コラムを始めたとき、どうせ大量にばらまかれるマスコミにはかなわないのだし、上品な書き方では効果がないので、思い切ってかなり激烈な表現をしたつもりだった。怒った人が反論を寄せたり、印刷メディアなどで悪口を書かれることを期待してもいた。そして活発な議論によって子供状況が少しでも良くなることを願ったのだが・・・ 現実には、共感する人からの反応は少しあったが、肝心の標的からは、なんの反応もなかった。興味も関心もないのか? それはないだろう。「子供のこと」は全国民の重大関心事のはずなのに。 事件をデキモノに例えると、血の出る傷口を押さえたり、強い薬を使ったり、切り取ったりして、その箇所を直したつもりでも、あとからあとからデキモノは出てくる。体質を変えなければだめだ。 有識者とかいう人や、官僚、政治家、学者、マスコミによく出ている人など、それなりにその人の意見が実現される立場にある人々が、いざ「子供問題」となると、とにかくお粗末。逆に現場にいて子供と接していて、子供問題に詳しい人々は意見表明力が弱い。いずれもその大半が公務員だということも、足かせとなっている。 公務員的発想、公務員的手法では、子供問題の根本解決はない。世間的には悪いと言われているような人も、社会のゴミ扱いされているような人も含めて、すべての大人が関わらなければだめだ。そんな人でも、かっては子供だったし、子の親である人もいる。 平成16年6月に法務省が出した「人名用漢字の範囲見直し案」が実現すれば、数年後には小学校に三浦糞樽君や、河村屍膿ちゃんが、その名前を書いたランドセルをしょって入学してくるわけだが、これで人権をどう守るというのか? 親の責任だと? 親による幼児虐待や死亡事故が多発しているというのに、三浦糞樽君の人生をなんと考えているのか? この審議をした有識者とはこの程度のものだ。 報道によると元文化庁長官で小説家の三浦朱門さんは「どんな名前を付けるかは親の責任。人名用漢字を定め、使用を制限することなど、もはや不要」という意見らしい。現在の制限はやり過ぎだとしても、人名漢字を指定したのも、それなりの理由があってのこと。そこに思いをはせて意見を表明しているとは思えない。 大人である親を笑うのは勝手だが、その子供はどうなる? 無責任きわまりない。こんな人間が文化庁長官をやっていたのだ。そしてこんな人間の意見がマスコミでは、何百万倍に増幅され、大きく報道されるのだ。 「パソコンが変換してくれるので難しい漢字でも良い」という粗雑な意見も多いので驚く。学生ならテストのたびに自分の名前を書くし、大人でも契約などで何枚もの紙に自署で名前を書かされることもしばしばあるのに。自分の名前は何千回も書くのだ。親を心の底から恨む子も出るだろう。おまけに「子供」という字も書けない者がそんなことをいうのだから、あきれはてる。 おそらく人名用漢字の案は修正されるだろうが、あまりにも無神経だ。心ないオヤジたちが力を持っているかぎり、子供問題はますます悪くなる。立ち上がれ、心ある市井の人たち。発言せよ、自分自身の未来のためにも。 | |
★既成のマスコミではできない評論をインターネット上で試みたつもりだが、その企画そのものが頓挫してしまった。初期のbk1の評論は読書家にとっては大変有意義なものだったのだが、やはりbk1も商売にまけたというべきだが、これで出版界に夢をもてるのか?次世代に真実を伝える事ができるのか?
個人サイトだけが頼りというのではあまりにもおそまつな日本国ではないか。 あらゆる古い組織のくされこそが問題なのだ。個人が個人として起立せよ。 福沢諭吉翁のいう「独立自尊」の精神を、すべての人に。 矢玉四郎(2005/6) |
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