ぶたごやへかえる

犀のように さいのように

●2015年に最近の欧米の学者の書いた脳科学の本を何冊かよみました。仏教の話が、必ずといってよいほど出てくる。インド出身の科学者もいる。私たちが学校で習ってきた科学は大きく変化しているようだ。
脳の働きの研究で「自分とはなにか?」「自分の意識とはどういうものか?」というテーマがあります。
コンピューターなどの進歩で、脳の働きがどんどん解明されていくのですが、ロボットが人間のように意識をもてるのかどうかということも興味深いテーマでしょう。
そこで「個人の自分などない」という説もでてくる。お釈迦様が2500年も前に「無我(我というものはない)」ということを説かれたことと符合してくる。
「諸行無常(あらゆるものが変化する。常なるものはない。」という仏教の根本に最新の科学の知見が似てきていることに驚く。アインシュタインが少し触れていたようだが。(2016/1/15)

●犀の角
「ブッダのことば」中村元訳(岩波文庫)に犀の角という一章があります。
蛇の皮とか、例えが面白いので読みやすいです。
「ほとけくらぶ」に書きましたが、「犀の角」は誤訳で「犀」が正しいようだ。スリランカのスマナサーラ長老が指摘されている。読めば納得だ。
「弘法も筆のあやまり」ということわざもあり、とにかくこれを無視せず研究者は検討されることを期待する。中村元先生は亡くなってしまったので
、だれが主導されるか、そのような人物が仏教関係におられるかどうかは知らないが、私は勝手に訂正する。お釈迦様に対して誠実でありたいから。(2011/5/2)

「仏教」上、下二巻ベック著(岩波文庫)の訳者渡辺照宏の訳者のことばを読むと、仏教の最近の流れがつかめます。1977年にかかれたものです。

日本仏教は鎌倉時代の法然、親鸞、日蓮、道元などの宗祖の教団が現在まで続いている。江戸時代までは外国旅行ができないので、インドへ行けなかった。明治になってから、急激に原始仏教の研究が始まる。

さらに仏教は戦後になって初めて研究が進んだ事柄も多い。今はやりの歎異抄(親鸞上人のことを書いた)の研究も明治期にとりあげられて、戦後になって発展したもので、仏教研究は戦後に(今から半世紀前)に様変わりをした。だから、まだまだこれからといことになる。若い人にこそ仏教の研究を始めてもらいたい。とても面白いし成果をあげられるでしょう。宗派、教団にとらわれないことが肝要。(2009/2)

仏教とはなにか?釈迦、ゴータマが仏となっての教えだ。文字どおり「仏の教え」と解釈したらそうなる。
「仏」はブツと読む。インドでのブッダという言葉の音を「仏陀」と中国語で表示したもの。仏を日本ではホトケと読むが、ホトケについては定説はない。不明だというのが現状。説はあるが、怪しげなものばかり。だから「仏」はブツと読むのが正しい。が、日本では長年ホトケと言ってきたので、ホトケのほうが親しみはある。
 こういう話は本来学校教育で国語の時間に教えるべきことなのに、戦後はまったく教えなかったので60歳の親父でも無知なのだ。
ここ数年仏教を学ぶと、目からうろこが落ちる。
仏教史というと、宗教の歴史だから、学校では教えない。ところが、仏教史を抜いた日本史などありえないのだ。
世の中デタラメだとわかるだろう。
お釈迦様は2000年以上もまえに、そんなことはお見通しだった。人間の性は変わらない。
現代人には、とてつもない知識がある。その知識が邪魔をして、釈迦のいう「正見、正思」ができない。

●仏教を正しく知るためには・・・
明治時代というのは、それほど遠い昔ではない。私の祖父は明治9年の生まれだったから、曾祖父は江戸の人だ。江戸時代には寺小屋があり、僧が子供の教育をしていた。檀家制度によってすべての人がどこかのお寺に所属させられた。今の戸籍係の役をお寺がになっていた。お寺は公務を行っていたわけだ。明治初頭にお寺が壊される。それ以後の神社建築はことさらお寺の様式と違うように直線的な建物になった。お寺を壊すという愚行はすぐ中止されたのだが、多くの文化遺産が失われただろう・・・・・
明治時代には、仏教研究が飛躍的に進んだ。サンスクリットやパーリ語を習得して、漢語の経典と比較したりするようになった。西欧の仏教研究も参考になる。ここで釈迦その人の研究が進んだ。親鸞上人が知らなかったようなことまで、我々は知ることができるようになったのだ。チベットに入国した河口慧海は戦後まで生きた人だが、在家仏教という言葉を使った初めての人(恐らく)だ。


●日本仏教の特徴
      
 日本の仏教は中国を通して伝わったことにより、漢字で翻訳された教典をそのまま読むという特徴がある。
 中国から日本に仏教が入ってきたのは、西暦538年とされている。
 紀元前400年頃にインドで始まった仏教は、漢字に訳された教典とともに、釈尊の時代からすると、大体900年くらい後に日本に伝わってきた。大乗仏典が鳩摩羅什によって翻訳されてから100年以上後である。
 現存する日本最古の歴史書である古事記でさえ、その成立時期はこれより150年以上後の712年である。
 稗田阿礼が帝紀旧辞を代々口述で受け継いできたにしても、そこには仏教の影響がひそんでいるはずだ。
 行基は朝廷から布教禁止されていたが、後にはその力を買われて、聖武天皇から大僧正の位を授けられている。天平時代においても仏教は為政者の有力な道具とされていた面がある。
 日本史は日本仏教史でもある。日本語そのものに仏教が滲み込んでいる。日本文化から仏教を取り外すことは不可能である。
 だが現在においては異様に宗教に関わることを忌避する傾向があり、学問さえもまともな学問となっていない。
 仏教を排する動きは常にあり、明治初頭にはその急激なものがあるが、それでもなお仏教を抜きにして日本は語れない。
 学校教育では、往生要集-源信、選択本願念仏集-法然、などと項目だけは厳しく覚えさせるが、極楽浄土や念仏などの内容は、仏像などを美術品として扱う以外は、あまり教えないという奇妙なことになっている。これも、日本仏教の置かれている立場の特徴である。
 他の仏教国と大きく違うところは、宗派が多いということである。
 奈良時代に南都六宗という言葉が見えるが実際にはおだやかな集団という程度だったらしい。平安時代に最澄の天台宗、空海の真言宗ができてから、それぞれ自宗の優位性を訴えるようになって、宗派性が強まった。
 平安末から鎌倉時代にかけて、さらに宗派性が強まる。法然が選択本願念仏集で「華厳天台等の八宗に対して浄土宗の名を立てうる」と説いてから、浄土宗ができた。能忍は達磨宗をおこし禅宗の先駆けとなった。
 その後、次々と新しい宗派が立てられた。栄西、親鸞、日蓮、道元などがそれぞれ異なった教えを説き、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗など、現在にまで引き継がれている各宗派ができた。
 宗祖の意向に係わらず、教団は教団として維持発展させるために、独自の教えを信者に強いる。他の宗派との違いを際立たせることになる。
 真言宗と日蓮宗と浄土真宗とでは、それぞ南無大師遍照金剛、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏と、唱える文句がちがう。いっしょに集まって何かをしようとしても、共通なのは南無だけというありさまだ。
日本仏教の特徴としては肉食妻帯がある。親鸞上人は妻帯をしたので浄土真宗は特別だが、他の宗派でも、明治初頭に政府が肉食妻帯勝手たることと決めたので、それ以後は日本の寺では普通の家庭のような生活となっていることが多い。僧の戒律を政府が決めて僧がそれに従うとき、すで仏教は滅びているという見方もできる。
 伝統仏教のお寺が葬式専門となっていて、現実に日々の生活の中で悩みのある人びとは新興宗教へ走る傾向がある。仏教系の新興宗教では、法華経を掲げることが多い。創価学会のように、日蓮正宗のお寺と縁を切ってしまうところもある。
 日本の仏教というとき、仏教系の新興宗教も含められるなのなら、これもその特徴となる。
 伝統仏教の寺院の中では、真言宗のように庶民の素朴な願いをうけとめて、現世利益のために、祈祷をやり、神社や道教を思わせるところもあるが、他の宗派のお寺は静かで、檀家以外の人は近寄りがたい。キリスト教の教会よりも近寄り難い。
 いまだに戒名料を数百万円とられたという話を聞く。葬儀と霊園の販売によって寺院が経営されていること。妻帯によって代々子孫へ相続されていて、寺に生まれなければ僧になることが困難。一方寺の跡継ぎは、はじめから自分の家である寺の宗派に属し、受け継いだ檀家にしばられ、他の宗派のことにも、世間一般の庶民の地獄のような苦しみにも無知のままでいる。これが日本仏教の悪しき特徴である。
 葬式仏教というが、現実には東京などでは葬儀は葬儀社が主導している。病院でいち早く死者の情報をつかみ、とまどっている家族を指導し、効率よく葬儀から火葬までの一切を取り仕切る。
 葬儀社から呼ばれた僧が、単なる儀式屋のタレントに堕していくならば、日本仏教の未来はない。
 だが、常に釈迦の教えに立ち戻り、仏教を世界に広めようとする動きはある。他国の仏教の情報も入り、それに耳をかたむけるようになった。希望はある。

●釈尊(お釈迦様)の基本メッセージ  
    
 釈尊は悟りを得た35歳から80歳代まで45年ものあいだ、教えを説きつづけたという。対機説法とか方便という言葉があるように、膨大なお経の中で様々なことをいわれていることになっているが、釈尊の死後にまとめられたもので、後の人が考え出して仏教の教えとされている事柄も多い。
 明恵上人が釈尊と同じ年代に生まれなかったことをなげき、インド行きを計画していたそうだが、大乗仏教が伝わるなかで、釈尊その人の語った言葉だけを、厳密に知ることは困難だ。明恵上人が知り得た釈尊の情報はどのようなものであったのだろうか。
 近年、上座部仏教の見直しや、新たな発見もあり、原始仏教という範疇のことがらが明確になりつつある。
 釈尊の初めての説法のことを初転法輪という。ここで説かれたことが、仏教の根本の教えであろう。
 それは四諦、八正道、中道などである。しかし、五蘊、十二縁起のように数字をつけて事柄をまとめたのは、後代のことのようである。
 ダンマパダやスッタニパータには、釈尊がそばにいる人に語りかけているような感じをうける文が残っている。仏教の教えとして我々が聞かされてきた、難解な漢字の教典と違って、釈尊その人は、きびしく断定した言葉で、しかしわかりやすく話をされていて、新鮮な驚きを覚える。
 釈尊の登場を予言したアシタ仙人や、明恵上人ならずとも、釈尊から直に説法を受けたかったという思いがつのる。
 友松圓諦訳の法句経に「よくととのえし おのれ」「おのれこそ おのれのよるべ」という言葉がある。「自分こそ自分の主人である。自分の心を自分で整えて、自分を頼りにする」というのが、釈尊が一貫していわれている最も基本的なメッセージではないかとおもわれる。釈尊自身がそうされてきたことでもある。
「婦女を尋ねることよりも自分を尋ねることのほうが勝れている」(四分律)
「満足して、教えを聞き、真理を見るならば孤独はたのしい。」(仏伝Vinaya)
「わたし自身の頭が焼かれているとき、他人は何をわたしのためにしてくれるでしょうか?老死に追いかけられているから、それを滅ぼすために、わたしは、はげまねばなりません。」(長老尼の詩)
 このように「自己を制御し自己を育てよ」というようなことを、くりかえしいわれているようだ。修行中から入寂まで、ずっと釈尊がおもいつづけてきたことである。
 釈尊が苦行を経て、悟りを開こうとしたのは、自身が「苦」に責められたからだろう。だから基本の考えは「一切皆苦」にある。
 四苦八苦のうちの老病死はだれでも感じることだが、釈尊は生をも苦とした。この世に生まれたこと、日々生きることそのことを苦と断定した。
 五蘊盛苦は、思春期以降の若い時に特にあてはまる。本来、五蘊盛んなら楽しいのではないかと思うところを苦と断定する。
 若い日の釈尊にとっては生きる苦しみこそが第一の問題であっただろう。これを逃げたりごまかしたりしないで「生きることは苦しい」と断定することによって、次の段階へ進むことができる。      
「諸行無常」「諸法無我」は釈尊が到達した考えを表したものだ。
 すべての形成されたものは無常であり、変化してゆくという意味の「諸行無常」は平家物語の冒頭にも登場し、釈尊の教えがしっかりと日本に伝わっていたことがわかる。
 だが、しばしば無情と混同されているきらいがある。無情は憐憫や同情を求めて得られないときに使う言葉であって、釈尊の教えとは関係がない。一方無常の具体例として浄土真宗の御文章に「朝に紅顔夕べに白骨」があるが、これこそ無情であり冷たいではないかという印象を持つ人もいるだろう。
 釈尊は死者が出るのはあたりまえのことであり、嘆くな、嘆いても苦しみがますばかりだと、いわれている。        
 過ぎ去った過去は捨てよというのが釈尊の教えだ。庶民の感情からすれば過激なものといえる。後世の教団ではこのことをはっきりといわずに、死者の思い出を守り供養するという、世間一般に合わせたところもある。
「諸法無我」という言葉は難解であり、後世につくられたもののようだが、釈尊は「自分が所有するということに執着すると苦しくなる」と説く。我欲を捨てて「わがもの」という観念を無くせば楽になるといっている。
 釈尊は「中道」「縁起」などの考え方で、清浄行によって悟りへと向かう道を示されている。