心のきれはし  ポプラ社

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学問のすずめ

令和元年版 学問のすずめ

●「書かかさせていただきます」などの、余計な「さ」を入れる変な言葉は気持ち悪い。
×「(私どもが)ご用意いたしました」用意するのは自分なので、自分を尊敬しているのか?
〇「(お客様のほうで)ご用意なさってください」このちがいを考えられない者ばかりだ。
 御をつけると丁寧になるとおもって安易につける人が多い。芸能人がテレビのメインキャスターになって、NHKもでたらめになっている。(2019/4/23)

●令和の令の字が、手書きと活字で大違い。政府はどうでもいいという見解を示した。個人的にはいいとおもうが、文部行政とか、教育との整合性はどうなる?
 フジテレビの小倉さんの番組で、若い女性が「私はちょんの、マと書きます」と発言、小倉さんが苦笑いしていました。時代がちがうので、わからない人にはわからないが・・・学校では、ちょんのマの筆記体で教えているらしい。活字は形がきつい。(2019/4/23)

● (以下は2016年に書いたもの)発言を控えていましたが゛今年は申年(さるどし)還暦からひとまわりして、いつ成仏してもおかしくない歳になりましたので、この十年間の仏道修行の成果もあり、世の次世代の人々のために、できることをやります。特に子供たちとその親世代に伝えることができることがあるとおもいます。
とりあえず、過去の発言と世の中の現状について書きます。(2016/3/14)

★マンガは「心のきれはし 教育されちまった悲しみに魂が泣いている」(2000年発刊)に載せたものです。

●2016年3月1日のニュースで「手書き漢字  どちらも正解」と、文化審議会が指針をだしたことが記事になっています。

  さらに2016年3月14日の朝日新聞の「いちからわかる!」『常用漢字の字形  国が指針をだしたね』という解説記事も出ました。
「女の右上はつきだしてはいけない」などというものです。どうでもいいことを、ひとつに決めないと不安というのは異常です。世の中で必死に働いている人にとっては「どうでもいいことは、どうでもいい」のです。
記事によると、銀行などの窓口で書類に書いた字の訂正を要求されたという事件があったようです。教育されちまった人がいたわけです。そのことの訂正ということになります。

 2000年発刊の「心のきれはし  教育されちまった悲しみに魂が泣いている」(ポプラ社絶版本)に書いたことが、やっと日の目を見ました。16年もたってから、やっと修正されるわけです。それでも、発言の効果が少しはあったことがやっと証明されました。(この本はアマゾンの中古が4千円。去年は200円でしたが・・・)

  当時から同じ考えの人は多くいたのですが、一度まちがったことが定着すると、それが教育されて次世代にひきつがれると、修正することは困難です。特に国語の問題は西洋の白人(アングロサクソンなど)の権威を使って修正することができません。日本人がやるしかありません。いまは、多くの問題が外国人の指摘によって修正されることが多い。これ自体が情けないことで、日本の教育の欠陥、大問題です。若い人はだまされないために勉強してください。上のいうことを覚えるのが勉強ではありません。ただ物覚えがいいひとが成績優秀とされて社会で力をもつのは、極めて危険です。(2016/3/21)

「まちがいだらけの漢字教育」という項に書きました。「文部省、教育者は神経症?」という項目もあります。
  当時、教育評論で同じようなことを言っているなとおもったのが、尾木直樹さんだ。教師経験もあるので、この人がいるのなら素人が発言しなくてもいいとおもいました。なにしろ子供達のためと思って発言すると、児童書出版の世界では、目の敵にされて、生活が苦しくなるのですから。当時はまだローン返済地獄の中でした。
  70過ぎて、借金も0となり、書きたい作品として地味な作品を提示してもボツになるのが現状です。多くの良心的な児童文学者たちも同じです。
  子供の人生に影響を与える児童書は、その内容としては惨状といえる。経営がきびしくて、出版社にも、昔のように、いわゆる良書?を、売れ行きを度外視して出版して、地味に売り続けるという心の余裕は、なくなっている。
  だが、この先百年生きる子供たちの将来のために、ふんばっていただきたいものです。

(書きかけ工事中)(2016/4/4)


以下の記事は、主に十数年前に書いたものです。

目次
ら抜きは正しい    ●買春をカイシュンと読むな ●・・してあげる傲慢・・させていただく卑屈させていただくはウソツキ  ●「お」をつけるな「さん」をつけるな     ●この国をやめよ      

    ●箱ブランコを抹殺していいのか?  ●サマータイム反対      ●四輪車の昼間点灯をやめよ
成果のあったものもありますので、ただちに抹消はしませんが、仏道ではお釈迦様が「そしるな」といわれるので、現在ではあまり偉そうな発言はしないひとになってしまいました。南無阿弥陀仏。ですが、やはり発言をしないとまずいと思うようになりました。(2012/3/15)


クビチョウをやめよ テレビに出る政治家、評論家が首長をクビチョウというのが気になる人は多いでしょう。気になるのがまとも、クビチョウといって平気な感覚が異常です。語感が汚い。
化学を科学と区別してバケガクといいます。これと同じですが、あくまで公(おおやけ)では化学はカガクです。
首長も公(おおやけ)ではシュチョウです。テレビなどの公(おおやけ)の席でクビチョウという人は、公(おおやけ)と私(わたくし)の区別がついていない。
 仲間うちでふだん使っていても隠語である。永田町用語といわれるような業界用語はどの業界にもある。その言葉を使うことによって仲間として認められるところはある。つまり仲間で群れる、群れて安心するのです。
 しかし個人が個人として、信念をもって正しく考えることができなくなる。周りの人間に流されている。子供と書けない者も同じ。これが日本の政治家の実態。公務員の資格なし。クビチョウで検索するとやはりいろいろ出ます。南無阿弥陀仏。
(2012/3/5)

●近くの図書館が捨てた本をもらってきました。「スモール イズ ビューティフル再論」E・F・シューマッハ(講談社学術文庫)
だれも読まないから捨てられたのでしょうが、天が私に読ませるために捨てさせたともいえる。原子力エネルギーについても早くから発言してきた人だが、仏教経済学なるものもある。ビルマで仏教にふれたようだ。
亡くなったアップルのスティーブ・ジョブズも仏教の影響をうけているが、西洋文明の折返点で仏教の果たす役割は大きいだろう。日本人ならぜひ一から知ってほしい。唯物論者の影響で、この半世紀、国はほとんど教育しなかったので、日本人は仏教を誤解している。キリスト教徒の国の人が研究し仏教から学んでいる。自分の足元を見ない日本人とは・・・多くの人が子供という字も書けなくなっているのだから絶望的だが・・・・(2011/10/11)
補足--シューマッハを私は知らなかったのだが、平成24年2月11日と18日の東京新聞「生きる」欄にシューマッハ経済学の再考(尾関脩)が掲載された。(2012/2/25)

●ここ数年「本が売れない」というぼやきばかりをきかされてきたし、児童書の世界でも、からくちの内容よりも、あまくちで、とりあえず売れるものをという流れになってきていました。本を印刷して出版するということの根本が問われているのが今現在です。
今の出版社というものが出来上がったのは明治時代の初頭です。福沢諭吉の「西洋事情」がベストセラーになったことは日本人の新情報を早く知りたいとい思いに答えるものでした。江戸時代にもあったのですが、当時は浮世絵なとで知れるように木版で、なまりの活字による大量の印刷が始まったのは明治になってからです。が、例えば明治政府は徳川を敵視していたので、世間では家康をたぬきおやじなどと、わるくいい、そのために異様に豊臣秀吉をもちあげた。
それが立川文庫などで真田十勇士などの話が大はやりになった理由です。私の子供時代昭和20年代でもマンガ、映画はそうでした。おかげでずっと家康は悪いやつとおもっていたのですが、とんでもない、あれほどのすぐれた政治家はほかにはいません。外国人はびっくりしています。、いまでもその評価は正確ではないでしょう。武田信玄などもそうですが・・。浅薄な文化が訂正されるのはなかなか大変なことで、やっと平成になって、NHKの大河ドラマで徳川家や、篤姫がとりあげられたのですが、昭和時代とは変わってきたことをあらわしています。信玄の旗の風林火山は有名ですが、家康のは厭離穢土欣求浄土、ずばり仏教思想です。戦国武将といっても、戦いずきだったわけではありません。すぐれた政治家です。歴女の人たちも、深い所を学ばれるといいですね。
今、6歳の子供がこれからの世の中で生きていくためになることを、、大人はどういうことを彼らに伝えなければならないのか。それを発信するのが大人のつとめだと思うとこりゃたいへん。慶応大学関係の人でなくても福沢諭吉〔一万円札の人〕はもう一度よみなおすとおもしろいです。(2010/3/20)

★クリントイーストウッドという一人の人が「硫黄島の映画を作る」と、日本でも過去ほったらかしにされてきたことが、日の目を見る。変なはなしだなあ。それというのも、一人一人、現場にいる人が、考え違いをしているからだ。自分自身の「硫黄島」を訴える勇気が必要。いじめ問題もそれしかない。しかし、今の日本では玉砕する。(2006/12/9)

文化審議会が、へんな敬語を検討中。気色の悪い、へりくだり商業敬語や「させていただきます」うそつき言葉を追放してもらいたい。なんどでもいうが、率直な言葉を基本にしなければ、教育などできない。「汚い言葉だが心はきれい」と「言葉はきれいだが心が汚い」どちらをとるのか?言葉の裏にある心を見抜く力をつけることこそ教育の大目的である。
漢字は読めればいい、大人だって正しい漢字は出てでてこないこともしょっちゅうだ。「十本」は「じっぽん」でも「じゅっぽん」でもいいのだ。「じっぽん」だけが正しい答えなどと、バカな教育をするな。「女王」はジョーオーでいいのだ。くそみたいなことにこだわって、間違いだという人、言葉は口から出る音声が主であることを忘れている。だから「子どもと書きましょう」なんてことをいうオソマツな頭になるのだ。(2005/2/3)

★日本人がまっとうな心をなくしています。率直な物言いをしないからだ。言葉に心が現れる。
「ご高齢者の方」高齢に「御」をつける意図はどこにあるのだろうか?「ご老人」はもっといやです。まぎれもない老人としては、背筋が寒くなる。ゴロージンと音がきたない。ゴロツキみたいです。高齢者、老人で結構。
名前の呼び捨てがいけないとかいって、やたらに「さん」や「様」をつけるのはやめよ。人と人とのあいだに垣根をつけるだけだ。そのあげく「患者様」だと!サービス業者のへどがでるような「もみ手、太鼓持ち根性」が、公務員にまで感染している。
「作家さん」だの「画家さん」だのもおかしい。「家」ですでに尊敬している。
業者の地図に近隣の店を目印として「〇〇デンキ様」とか書いてあるのも異様である。
「(私どもで)御用意しました」はおかしい。自分を尊敬することになる。「お客様のほうで御用意ください」ならまだ許せるのだが。
丸谷才一のいう「語感」とはちがうかもしれないが、「まっとうな語感」が育っていない。教育はまずここからはじめよう。だが教科書に「お水」と書いてあるのだから教育できない。「御水」ではなく「汚水」のことを「お水」と書いてあります。
ついでに料理番組などでやたら「お水」「お肉」というのも過剰だ。「水」「肉」「塩」「酒」で良い。「おかぼちゃ」とかいうつもりか?「おなす」だと?これじゃあ、幼児が普通名詞をおぼえられない。オミズは水商売。オニクはあんたの腹の肉だけにしておきましょう。普通名詞は普通に扱わないと、外国人が日本語を勉強できません。(2004/12/24)


患者様患者様(かんじゃさま)といわれたことがありますか?医学専門誌 「日経メディカル」(10月号発売中)から取材を受けたので、改めて調べてみてびっくり。
日本人全部をバカにする陰謀かとおもう。現場の「お医者様」しっかりしてくれよん。
口から出る言葉と本心について虚心に考えましょう。(2004/9/17)
『巧言令色少なし仁「医」』これでOK。患者様という病院には行くな。金もうけ主義の病院だと判定しよう。これは医師に限らない、あらゆる業種に当てはまる。(2004/9/19) 久々にカットの漫画も担当した。(c) yadama 2004/10

★発売中の医師専門誌「日経メディカル」10月号の「今月のキーワード」は「患者様」
(2004/11/16)


サマータイム反対というより、バカか!
20数年前から反対論は書いている。森さんはすでに死に体のピエロ。元号だけで手一杯なのに、時計をいじるとか、国民に政権の強権を示して脅してみただけだ。菅官房長官がつぶしてくれるとは思うが・・・オリンピックの開催時間はアメリカの圧力があるらしい。マスコミは、自身もこれでひともうけしたいので、ほぼ報道しない。サマータイムで騒いでくれれば、他のスキャンダルを報道するひまがない。そこが政府筋の策略。(2018/8/15)

サマータイム反対
●時計の針をいじることに反対しているのであって、朝一時間早く出勤することに反対しているのではない。そんなことは昔からやっているし、新聞配達の人は夜中にうごいているし、工事関係者、現場のひとは暗いうちから働いている。事務系のいわゆるホワイトカラーのことしか頭にない人が多い。あほらし。(2012/11/17)

★またぞろ不愉快な報道。議員、知事などが、何度もつぶれたはずのサマータイムをまたやろうとしている。日の出時間が早い夏場の出勤時間を早めるのはべつに反対ではない。夕方早く終って遊べ。すでにフレックスタイムで10時に出勤するひとも多いし、農家なとの自然とつきあう仕事なら、当然始業時間は日の出時刻によって変化する。銀行でさえ、大幅に営業時間をひろげている。役人だけが時間に対して頭が固かっただけのことだ。
だが、時計の針をいじるのだけは、絶対に反対する。
エネルギー節約効果をかかげているが、そんなものは統計のうそで、政治家、役人、御用学者の御都合主義のうそデータだろう。時間をいじられる側の個人の悪影響のデータはどうした?経済活性化などといっているが、その動機の薄汚さがすけて見える。
戦後一度アメリカ人に強制されてサマータイムをやった。おれも経験したが、ろくでもないものだった。第一あのころは、パソコンねえ、テレビもねえ、洗濯機もねえ、あるのはラジオと十分おくれても平気なゼンマイ時計だけ。それでもすぐやめた。
それが今じゃ、一家に時計は何十もある。
そんなことよりも、まず時間とはなにか?時計による支配者の人民支配の歴史を考えろ。日清日露戦争と腕時計の普及とか。マスコミにも、この辺から考えることのできる新聞記者などもいなくなって、議員のやること垂れ流すやつばかりだから、「サマータイム、おもしろそう」なんていうおっちょこちょいをマスコミが作っている。それが世論の正体だ。
仏教徒のはずの公明党や、民主党にもよびかけるそうだから、だれがこれに乗っているか見極めよう。とにかく、汚い裏があるはず。時間をいじると、仕事がふえて、もうけるやつもでてくるからな。
なにより、外国がやってるから日本もやりましょうというのは、いいかげんにしろ。憲法第9条も同様。これは、世界に対する日本の強力な外交の武器なのだ。
(2004/8/20)

●平成22年4月 NHKで「させていただきます」を解剖する番組があった。そうとう蔓延しているのでまともな人は少数派になってしまう。言葉の問題はなかなかにやっかいだ。(2010/4)
「・・させていただきます」を「します」「いたします」に戻しましょう。6字不要、簡潔な日本語を。
変な言葉使いが多くて気色が悪い。「ご提供させていただきます」提供するのは自分だから、「ご」をつけると自分を尊敬していることになる。
「させていただく」は、うそつき用語。相手の了解をとったわけでもないのに、相手におしつけて断ることができないようにしてしまう。一見遠慮深い、だが卑屈、実は傲慢不遜。高利貸しなどが好んで使う言葉だ。信用してはいけない。
「だれに」させていただくのか?もともと浄土真宗の仏教信者が「阿弥陀様に生かさせていただいている」などといっていたもので、「だれに」には「阿弥陀様」のような「天の声」「偉大な力」を思わせるものがある。それを゛世間一般の人間にしてしまった。あいては、商業施設ならお客を、公務員は一般人をお客としてしまった。市役所で「お客様」と言っている。市役所は権力を持っている役所なのだ。その自覚が市役所の役人、公務員にない。。とにかくトラブルを避けたい。という、自己保身のために、市民を「お客様」といって、いい気にさせて、逃れようという根性だ。そんな公務員は要らない。民衆が公務員に期待するのは、正しいと思う政策を、愚かな民衆の反対を押し切って断固やること。だが、今の公務員は、愚かな民衆にただ従い、愚かな政策をする。

「させていただく」は商業文で使う場合にも「消費者の声」や「世論」などの大きな声を思わせる。だが、それは会社などが勝手に解釈して自分に都合よく設定した「偽の世論」だ。
「・・させていだだきます」といわれると、「ちょっとまって、それは困る」と反対することが出来ない雰囲気になる。「あなた個人は反対かもしれないが、会社は大きな声に従って・・・させていただきます」というだろう。

だから勝手に決めたくせに「6時に閉店させていただきます」「自衛隊をイラクに派遣させていただきます」「国民に背番号をつけさせていただきます」「憲法を変えさせていただきます」「戦争をはじめさせていただきます」「おたくの御子息を徴兵させていただきます」となるのだ。
このような言い方をされて、断れるか!
ただちに、ねこなで声の「させていだだく」を日本から追放しろ。
世の軽薄な風潮におもねて、「とりあえず恥をかかずに世渡りすること」しか考えないバカな大人どもがおおくて困る。「子ども」表記も同根なのだ。こんな言葉を使っていては民主主義も成り立たない。世界平和も実現できない。昔の人が方言でやりあったように、人と人が対等な立場で意見を出し合うことなどできないではないか。飾りをつけない、へりくだらない、素の日本語で意見を出し合うことが大事。変な感情を込めたナレーション、脚色して相手を感情的に誘導する言い方が横行している。ジャーナリストがその理念を忘れている。

戦後の教育と腐れきった大人の心を総点検する必要がある。終戦記念日に戦後60年のうちに溜まった心の汚れ落とし0から始めよう。書を捨てよ、テレビを疑え、うすぎたない権威に盲従するな。(2004/8/15)

★名前用の漢字から「糞」を除くことになった。当たり前だ。
 政府や議会、学会の言葉の乱れはひどい。先日のフジテレビで買収を「かいしゅう」と何度もいっていたアナウンサーがいた。政府、国会、学者や、放送局が、買春を「カイシュン」と読むという無神経な人ばかりだから、こうなるのだ。即刻広告して訂正すべし。国語研究所はカタカナ言葉の言い換えだけでは済まない。日本語をきちんと。音も訓もわからないような人が、憲法の文言をいじるなど狂気の沙汰。
(2004/7/9)

★bk1のコラム自体がなくなるのて最終コラムです。7月2日毎日新聞の投稿欄にも、名前に使える漢字を「丸投げ」したことを非難する投書があった。同感。上級公務員に国家の運営をまかせるのは危険極まりない。議員は心せよ。参院選挙です。(2004/7/2)


★地方紙の社説がすぐ読めるのはインターネットのおかげだ。だが、近頃の「地方」は中央の文化的奴隷となっている。政治経済だけでなく、特に文化、芸術、芸能などほとんど中央の価値観をたれながしているのが現状。教育、児童関係はまったく、薄汚い中央のいいなり。共同通信が「子ども」と書くので、その記事をただ垂れ流すだけの地方紙は「子ども」となる。「子供」と書く地方紙は半分くらいか。佐世保の事件のようなことが起きるとき、その見識が見えてくる。のどかであるとおもっていた地方も悪い意味での「東京」になっている。もはや日本に「田舎」は存在しないのか?子供はその地域の独自性の中でこそ育てられ、個人の個性だけでなく、その地域の個性を身につけた人に育てられるべきだろう。(2004/6/6)

★「あつものにこりて、なますをふく」愚を犯すな。事件がおきたら警備強化するのでは根本解決はない。大人が子供を疑いの目で見たりするようでは、ますます悪くなる。子供は大人社会の鏡、吸取紙だということを頭において、大人自身の心が澄みきっていなければならない。
さらに、子供関係者(公務員が大半)にユーモアが分からない人が多いことが大問題。小さなことにこだわる生真面目な対応、固い思考では問題解決はむり。仏教や古代からの中国の底知れぬ大きな思想に学び、戦後の浅はかな思想から抜け出ることが第一。その第一歩が「子ども」表記の追放なのだが。「させていただく」を直ちにやめ「します」と言おう!「させていただく」で検索すると出た。同意(2004/6/6)


完全管理社会の中ではまともに人間は育たない。事件が起こる度に管理強化するのでは、ますます悪くなる。
  幼児を見るがいい、この人たちの心には仏が確かに住んでいる。学校、社会の教育はこの仏を追い出し、鬼をすまわせる目的で行われているとしか思えないのが現状だ。「子ども」と書く偽善者は、「やさしさのおしつけ」で解決できるとおもっている愚か者だ。一見「やさしい」「上品な」「つつしみぶかい」「正しい」世界ほど、実はおぞましく、薄汚いことを、誰もが知っている。小学生でも高学年になれば見抜いている。
  最も大事なことは「ユーモア」だとだけ言っておこう。ガチガチに煮詰まってしまってはいけません。特に公務員、大企業の「優秀な」ひとたち。あなたが社会のくずと思っている人から学んでください。消毒されたきれいな社会には人は住めない。そこで人の心は育たない。「水清ければ魚住まず」
子育てで忘れてはならないのは、遊び・ユーモア・スチャラカチャン。子供はその天才なのだから大人が見習うと良い。)2004/6/3)


★老子に凝っていて、しばらく孔子を忘れていたが、ふと目に入った一文。(貝塚茂樹『論語』講談社現代新書より)
子曰 道之以政 斎之以刑 民免而無恥 道之以徳 斎之以礼 有恥且格
「法律によって刑罰でおどして民を指導すれば刑さえのがれば何をしてもいいということになる。
道徳によって導き、礼によって取り締まる事により、民は内心に恥の心を持ち、正しい道を行くことができる。」
二千年前の文です。今の世の中にぴたり当てはまる。力を持っている者に恥知らずが多すぎる。人類が進歩したなどとだれがいえようか。「先進国」などという言葉自体が傲慢です。(2004/5/6)

★憲法第9条「戦争の放棄」は強力な日本の武器である。敗戦国の日本人がこんな夢のような憲法をもらったのはなぜか?大日本帝国軍の全てを知ってから憲法を論ぜよ。あまりにもオソマツな時代に迎合する話ばかりだ。もはやマスコミにも、あの戦時を知らないものばかり。60歳のおれだって赤ん坊だったから知らんけど。愚かな「人間」という動物は60年で過去を忘れ、おなじ過ちを繰り返す。イラクでの米軍兵士の薄汚い虐待、あれが人間の実態であり、それは私たち自身のおぞましさでもある。人ごとではない。(2004/5/3)
●仏教ではこの人間の心の問題を扱います。釈尊の言葉と思われる法句経に「人をうらむという心を捨てないと、うらみというものはなくならない」というような言葉があります。日本人の中に深くしみ込んでいます。人をうらまず「水に流す」というのもそのあらわれでしょう。ところがいまは、裁判などでも「目には目を」の考えが有力になってきています。これでは戦争はなくなりません。(2010/4)


白川静「常用字解」平凡社)は面白いが。
「供」をひくと「お供(オトモ)のように用いるのは、供を伴(とも、つれ)の意味に誤って使用したもの」とあるのだが、巻頭の白川の文の後半に「子ども」表記使用、「子」をひいても「子ども」表記。
平凡社は別冊太陽でも「子ども」表記使用。「白川よお前もか!」前にも書いたが、辞書を作る学者というのはこんなもんらしい。うそかほんとかわからないが、読んで面白い辞書ではあるので推薦する。「子ども」に赤ペケを入れて常用しましょう。(平成16年3月11日)


鹿児島の知覧特攻平和会館は必見。自衛隊海外派遣(日本軍海外進出と同じ)を考えるためにも。(2003/12/2)

★ロイヤルホストがへんな店員言葉を指導して改めるそうだ。「コーヒーになります」「よろしかったでしょうか?」「・・のほう」「お名前様を頂戴させていただいて・・・」など、不愉快きわまる、まさに慇懃無礼な、サービス業の見え透いた奴隷根性を廃し、店員と客も、かざらない簡潔な日本語でさわやかなやりとりをしたい。
他の会社でも、指導を。経営者は哲学を問われることを認識してもらいたい。客もそんな店には行くな。新人に、こういう言葉を指導した社員教育の専門家、コンサルタントを追放したほうがいい。(2003/9)

★「お」をつけるな、「さん」をつけるな
民主主義は言葉のやりとりによって成立する。各個人が思いをぶっつけあううちに、より良い結論にたどりつく。
まず各個人が本音で語り、考えをその場にさらけ出すことから始まる。極論、暴論、全てまな板の上にのせて、みんなで討議することによって、各個人は自分の思い込みや、エゴを修正し、みんなが幸せになれる道を模索する。

現状はひどいものだ。いいひとに見られたくて、あるいは下心をかくすために、自分をかざろうとして、みっともない人ばかり。
「お水」「お外」「お肉」「お仕事」「お名前」 は幼児語だ。なぜ、いいおやじまでが幼児語を使う?「水」「外」「肉」「仕事」名前」のどこが悪い?おまけに小学校の教科書では「汚水」を「お水」とする。普通名詞は普通名詞として簡潔に。言葉に飾りをつけることは、心に飾りを付けることだ。

 サービス業者や高利貸し、通販業者などが、ねこなで声で客(カモ)をもちあげる。古くは「お子様」「お客様」最近は「お名前様を頂戴させていただいてよろしかったでしょうか?」だと。こんな言葉づかいを教育しているやつは、どこのどいつだ?
 「患者様」なんていう医者もいる。「政治家さん」だの「ボランティアさん」なんてものも聞く。「・・・させていただく」同様、見え透いた嘘つき言葉だ。こんな人間ばかり。講談や落語に出てくるような、ぶっきらぼうで、粗野な善人は絶滅したのか?儲けるためには、個人の尊厳も踏みにじる社員教育や、国の教育の成果?と言えるだろう。文化庁は簡潔な言葉づかいで、対等な人間関係を保てるように指導されよ。経団連のオヤジも、うそつき商人を野放しにするな。(平成15年8月12日)

★「・・させていただく」では民主主義は崩壊する。西武鉄道堤義明さん「ドアしめさせていただきます」をヤメサセテいただきたい。JRのように「ドアしめます」「ドアしまります」と、簡潔明瞭に。消防士が「水をかけさせていただきます」なんていうようになったら、日本は滅亡する。国会議員「法案を出させていただいた」だと。国会が一番言葉が乱れています。
芸能人も「出させていただいた」をやめましょう。観客には出させてやった覚えはありません。
ついでに歌ったあとにわざとらしく「ありがとうございました」というのは聞き苦しいです。歌の余韻がだいなしです。そうまでしてひくつになっているのは、営業のためですね。それはわかりますが、歌う者、聞く者、両者にとって不幸です。業界で指導してみんなで一斉にやめるようにすればいいでしょう。
(平成15/7/26)

国立国語研究所がカタカナ語の言い換えについて意見を募集中。賛同のメールを送った(2003/1/13)
★四輪車の昼間点灯は大迷惑だ

●この問題はかなり改善されたようだ。昼行灯は少なくなった。(2010/4)

★四輪車の昼間点灯は大迷惑だ弱者である二輪車が点灯している意味がなくなる。大きな車が自分だけ目立てばよいという根性。クロネコも佐川もタクシーも「そこのけそこのけ」と威圧的な昼間点灯をやめろ。二輪車を目の仇にしている四輪の運転手は二輪車をめだたなくしてやろうという腹か?ケーサツもマスコミも、相手の心理も含めて科学的に検討することだ。相対的に自転車、歩行者が心理的に見えなくなる。とくに曇りや雨のとき、対向車は気をとられて周辺のものが見えなくなる。無用なフォグランプ点灯にも等しい迷惑だ。点灯車に対してはパッシッグで対抗しよう。うっとおしい四輪車昼間点灯撲滅運動を提唱する。仮に全車点灯したら、日本の町の景色は実に騒々しいものになる。狂気の沙汰だ。緊急車両が来たって気づかなくなる。。(2002/12/10夕刊三面)

中国の小学校教師から学ぶ  平成14年1月10日
 テレビの放送大学で中国の小学校(3年生くらい)の道徳の授業を見た。毛沢東の子供時代の逸話を黒板の前に出て発表する子供の声、態度もしっかりしている。感心したのは、その子が発表を終えると、教師が頭を下げて(はっきり30°)「シェシェ」ありがとう)と、いうことだ。すべての子にそうしていた。日本では見られない光景ではないか。文部科学省はただちに、教師に対する教育を改める必要がある。いずれ中国の子供たちにしてやられることになる。
 子供をほめるとか、・・してあげる」とかいうのではだめで、子供が人間として良い考えをしめしたならば、「ありがとう」と大人は頭を下げるべきなのだ。教師はそういう心の広い大人であるべきなのだ。文部科学省にそのような人材はいるか?



★絵本を紹介するときは、文を書いた人だけでなく、画家の名前も必ず同格でかかげてほしい。例えば、「文 柳川泥鰌 絵 伊勢海老子 」という具合に併記する。これを「作 柳川泥鰌 絵 伊勢海老子」とするのは誤りである。絵本では絵は挿絵ではない。絵は主役である。まして、画家の名前を書かないのは、基本的な誤りである。著作権法の精神に違反している。


●買春をカイシュンと読むな
買春はバイシュンとしか読めない。売買はバイバイだ。これは音読み。訓読みでは、「買う」「買いたい」のように「う」「い」をおくることになっている。「買う」を「買」とは書けない。つまりこの漢字にルビをふるときは「か」のみふる。買に「かう」「かい」と二字のルビをふることはできない。どうしてもカイシュンとよみたければ、「買い春」としなければならない。国が決めた内閣告示では、買い物を買物と書くことも許容されてはいる。が、 カイを変換しても、多くのパソコンでは買は出てこないはずだ。買いと出る。買物はどちらも訓だから成り立つ。日本語の表記は大変難しいので、苦労して表記法の目安を作ったはずだ。それを国がわざわざ湯桶読み、重箱読みを作るのはおろかなことだ。
音訓が統一していない語、敷布、出番などを湯桶読みというが、敷き布とは書かない。これは座敷などのように、一字でシキとよむからであり、出番をデルバンとは読まない。カイシュンが成り立たない事がわかるだろう。カイシュンを認めるというのなら、内閣告示の送り仮名用例集というのはなんなのか?
全国の国語教師は国に異論をとなえられよ。だが「子ども」と書くようでははなしにならないが。売買の読みを子供がバイカイとしてしまったら、どうする?教育が成り立つか?売春をウリシュンと読んでも点をやるのか?化学をバケガクと読んでも点をやるのか?どうする?
不動産の広告などで、買い替えを買替と書くことはある。この場合はどちらも訓読みだ。だが、最後をモットモウシロと読むバカはいないだろう。
文藝作品などでは、夏目漱石の作品などにみられるように、出鱈目(でたらめ)とか、独自の当て字の使用など、作者の表現の自由であり、どうでもいいのだが、それでは教育などがなりたたないので、苦労して表記や送り仮名の基準を国が決めている。その国が自ら混乱させるとはどういう了見なのか。文化庁は何をしているのか?
こんなこともわからないバカばかりだ。それも国会議員、国家官僚、NHKのアナウンサーなど、エリートがバカになっている。選良ではなく、これは選悪だ。国が日本語を乱すのか。
しかも、これを疑問にも思わず「カイシュン」という学者、宮台真司氏など、相当に知能すぐれていると思われる人でも、日本語に関してはお粗末になる。戦後のデタラメな国語教育のせいだろう。「子ども」表記同様、腐った頭で何をかんがえるというのか。文部科学省、文化庁に人はいないのか?

回春、改悛、懐春という言葉の立場はどうなる?
食物と書けばショクモツ。食べ物はタベモノ。「べ」をおくることで区別している。こんなことは小学生でもわかることで、中学で習う国語の文法で、ほぼ完璧なのだ。
ということは、「カイシュンと読ませる買春」「子ども」などを法律として使用した者は、中学以下の学識しかないことになる。クビにしろ。こんなバカを税金や視聴料を払って養っている日本国民こそ最終的なバカなのだ。
バカが法律を作るのだから恐怖以外のなにものでもない。普段からぺンクラブの声明などお読みください。リンクしてあります。

●既存の読みについて、

2000年ころに書いた記事を削除しました。2014,年ころにNHKでもキゾンとにごることにしたそうだ。
既存はすでにあること、存在の存だから、ソンではないかと書いたのだが、保存はホゾンだし、読みが正しいかどうかというのは難解です。仏教を研究すると、学生をガクショウと読んだり、呉音、漢音でいろいろあることがわかる。

(2019/10/ 21)


朝日新聞平成13年4月16日「記者は考える」 論争消え迎えた国語の危機 清水弟
をお読みください。朝日新聞にも日本語を考える記者はいるらしい。が、ただ考えました、ではだめだ。論争は消えてはいない。おれがこうやって発言している。
 国語審議会がいつのまにか消えて、文化審議会国語分科会(5人)になったらしい。委員の数学者 お茶の水女子大学 
藤原正彦教授の弁「小学校で飛び抜けて重要なのが国語だ。」に賛成する。と、書いたが・・・4月28日文藝春秋五月号「これでいいのか子供の教科書」を読んで、ひっくり返った。オイオイ。国語担当の中国文学者の高島俊男は「子ども教の信者は目を覚ましましょう」でも触れたが、週刊文春のコラム「お言葉ですが」で、子ども表記に触れられていた。教科書批判文でも子供と書いておられる。
問題は、上に書いた数学担当の
藤原正彦お茶の水大学教授だ。『世界一勉強しない日本の子ども』などと書いている。これはガキドモでもいいだろう。「ガキドモがちーとも勉強しない。」と云っておられるのだから、この表記は正しいのだが、『日本の子ども達』というのもある。この人が小学校の国語を論ずるのか?国語の危機だと?国語分科会の委員?新田次郎さんは「子ども」と書いていたのか?
物理担当の松井孝典東京大学教授。『自然科学の先生は文章があまり得意ではない・・・』とあるが、小学校で習ったはずの「子供」を漢字で書けないのだから、まったく得意ではないようだ。算数の教科書に時計がのるのだが、文になっていない。日本語になっていない。子供がとまどうのはあたりまえなのだ。この件は「心のきれはし」の時計論、さらに今度やっと出ることになった「ちゃんとわかるとけい」で具体的に述べた。

★日本語については、敗戦によって混乱した戦後の五〇年だけを考えるのではなく、明治維新、仏教伝来など、文化の転換点を検証し、記紀、中国の古典から説き起こして考察するべきであって、ここ百年の学者の学説なども、ゼロから検証するべき時期にきている。それが現在なのだという認識をもてば、これからの論争は実に楽しいものになる。新しい日本、新しい人類の生き方を探るとおもえば、希望がわくだろう。教科書作りもそういうところから、やり直すことだ。まず、日本語の初等教育の教科書を作れ。


らぬきは正しい。どんどん、らぬきを使いましょう。
この欄を見て、「たぬきはおいしい、どんどんたぬきを食べましょー」と云ってきた人がいましたが、それはともかく、らぬき言葉はいけないという人がいますが、私には理解不能だ。
問題のひとつは、標準語というわけのわからないものだ。ここでも「教育されたらアホになる」といえるのだ。
「この着物、まだ着れる?」「うん、着れる」(おいおい、このパソコン、「きれる」で「着れる」に変換できないぞ。うーむ。)
「出来るか?」「できん」「見えるか?」「見えん」「見れるか?」「見れん」こんな会話は当たり前に昔からやっている。
言葉というのは、辞書や、教科書が先にあるわけでも、文法を作ってから会話をするわけでもない。まして、国語審議会のクソ委員が決めるものでもない。先祖代々年寄りから、子供へと口伝えに伝わってきたものだ。それが正しい言葉だ。そして、正しく心の内にあるものを相手にわかってもらおうと、会話のごとに、それぞれの人は努力してきた。その結果としてその地域に共通の言葉が出来てくる。それが方言だ。
ところが、国というのが、藩や、それ以前の国(武蔵の国、肥後の国)を意味した江戸時代がおわり、明治時代になってから、中央集権の嵐が吹き荒れた。国は日本国を意味するようになった。同時に言葉も標準語が作られた。
「方言は恥、標準語を話す人はりっぱな人」という、バカ思想、大うそが、ここで出来上がった。日本人民は国家によってみごとに教育されたアホになった。
昭和20年の敗戦によって、この流れが変わってもよかったのだが、もっと悪くなった。正義面するやつ、自分が国家から教えられたことが正しいとわめくやつ。なんでも法律が正しい、といばるやつ。話言葉をバカにして、漢字だらけの、このごろではカタカナ語の、難しげな書き文字による文で語るやつ、ことに大学教授、弁護士など、国によって資格を与えられた者のなかに多い。笑止千万だ。資格のない、免許のない、裸の一人間としての心を失った者どもだ。本来、野にあるべき文士、新聞記者のたぐいにも、その本分を忘れた者が大半となってしまった。私が日本はくさっているという理由のひとつだ。
●参考
くわしく勉強したい人は金谷武洋氏の「ら抜き」という言葉自体が「ま抜け」だという記述をどうぞ。(カナダ日本語教育振興会/エッセイ)一般の人は、五回よまなきゃわかりませんけど。理解できたら確実にえらくなってます。

  これはまさに逆転の発想といえる。「見られる」を基準として「見れる」には「ら」が欠けている、という主張が「ら抜き」だが、
もともと存在する「見れる」を基準にして、むしろ「見られる」は「ら付き」と呼んでみるか。よけいなものが付いている、という詭弁を弄することもできる。
多くの人は、文法をもちだされると、考えが止まってしまう。識者でも論理で考える訓練がなされていない。頭の痛い人むけに、勝手に矢玉流で一発かますと、以下のようになる。

 例えていえば、「見れる」を女「見られる」を男とする。男が女にむかって「おまえら、チンチンがないからだめだ」というようなもので、女からすれば、よけいなものをぶらさげてるくせに、というわけだ。金谷氏の弁とはちがうけど、わかりやすいなあ・・・教科書もこういうふうに書けば、みんな喜んで勉強する。昔は、先生が工夫をしていた。

金谷氏の弁「感じる」の「感じられる」を「感じれる」というのは違和感があるというのにも共感する。
「感じる」ってなんだ?「感」は漢字の音読みで、それに「じる」を付けて作った言葉だ。「生じる」「論じる」のたぐいだ。漢字+じる。
「見る」を「見じる」ケンジルというようなもの(そんな言葉はないけど)
しかし、なぜ違和感を感じるのか?いずれ「感じれる」も認知されるだろう。
ちなみに「豚じる」はトンジルと読み、ただ、ありがたく食えばいいのだ。ブタジルと読んでもいい。「豚じれる」には違和感がある。
(あのう、これただのジョークなんですけど・・)
 



●ちかごろ流行は「選択肢」
「いろんな選択肢があってもいい」とか、「これには三つの選択肢があります」とか、政治家や、評論家のはなしのなかに、やたらと「せんたくし」とういう言葉が出てくるようになった。
 おれは毎日洗濯しているよ。おれは「洗濯士」だ。
 だれが使い始めたのかしらないが、多分、英語の論文での、チョイスとかなんとかのいいまわしを、翻訳して出来てきた言葉なのではないか?「いろんな道がある」とか「これには三つの方法があります」と表現していたものだが。こういう言葉を使う人を信用しない方がいいだろう。なぜかといえば、内容空疎なことをいうのに、はくをつける作用を、こけおどかしの「選択肢」ということばに期待しているからだ。バカデミズムの学者や、官庁の好む用語だ。私の書く童話では、まったく使い物にならない用語だ。
 独断的推測だが、選択肢を使い始めたのは、同時通訳ではないのか。アポロ宇宙船の月面着陸のときに、同時通訳が活躍した。どうもそれ以後のような気がする。どうですか?御意見を募集します。


●日本人「・・してあげる」ゴーマン「・・させていただく」ヒクツばかりなり
気になるのは語尾上げ(半疑問)だけではない。いい親父までが、「○○してあげる」だと。大人が子供にしてあげるのはいい。だが、「お肉を小さく切ってあげる」だの(子供に食わせるためではなく、肉に対して)「車をきれいに磨いてあげる」だの(人に対してではなく、車に対して)。
「・・・してあげる」というのは、むしろ相手を低くみて、ゴーマンなのだということに気づかないのか。「してあげる」は、幼児に対してだけに限定しよう。「・・・する」でいい「・・・してやる」でいいのだ。「・・・してあげる」などと、気色のわるい物言いをやめろ。すくなくとも、男はやめてくれ。ぞっとする。してあげられる者の気持ちを考えたことがあるのか?幼児でさえ、2歳くらいになると、「してあげる」というと「自分でする」といいはることがある。自立心の芽生えだ。「してあげる」が、対象者の心を無視した、自己満足だということがわかるだろう。
 むかしから、「おコーヒー」とかいう気色のわるい人種もいたのだが、ある階層の女性に限られていた。ちかごろでは、いい親父までがこのたぐいの話し方にひきずられてしまっている。
 女性の発言力が増したことはいいことだが、そのことによって、男が自信を喪失し、自ら考えることをやめて、まわりをきょうろきょろ見回して、大丈夫だとおもわれることだけを発言するようになってしまった。
そんな男に、女もうんざりしている。だから、女自身が、男はたよりにならないと考えて、ますます表面的に強さをあらわそうとする。男にも、女にとっても不幸なことだ。
 自分が傷つきたくないという根性なのだが、ねこなで声で「御社」だの、「お名前様」だの気味がわるいからやめろ。「迷子様」なんてのもある。迷子を尊敬するな。
妙な敬語をつかうな。「・・させていただく」だと、へりくだるのも、いいかげんにしておかないと、かえって信用をうしなう。自分がやりたくてやっているのに「させていただく」だと、うそつけ。いったいだれにさせていただくのか?神か仏か?世間様か?
 「私がする」といわず、「させていただく」というのは、責任のがれのためだ。あとで文句がでたときのために、「だれかにさせられた」と言い訳するつもりなのだ。
「ご提案する」もおかしい。」提案の主語は自分なのだから、これでは自分を尊敬することになる。「私はご提案する」まさに、その本音が見えているというわけだ。偽善者ども、また、それにだまされるばか者ども。
 デパートなどのサービス業や、芸能人という特殊な社会でのへりくだりが、テレビをつうじて、一般にひろがってしまっている。高利貸しのテレビコマーシャルも同様。だまされるやつはアホだ。
一部の言語学者はこれを「場面方言」と名付けたいらしいが、私は反対する。「接客場面の方言」という意味らしいが、これでは「方言」は悪い物ということになる。明治政府の断行した中央集権を考え直すべきときなのに、いまだに、標準語が正しい、方言は間違いという、おろかな思想に、学者がとらわれているとしたら、よくないことだ。
企業が広告などで使う見え透いたへりくだり語などを正すために、名前を考える必要がある。だが、場面方言ではわけがわからない。間違いだ。標準語という、嘘語をやめて、方言ではなそう。方言には、みょうな謙譲、尊敬はなく、相手と対等、その地域の仲間コトバなのだから。
 単に言葉の問題ではない。言葉にあらわれている人間の心のなかを、見抜くことが大事だ。
●ためしに「あげる」を禁止して発言してみたらどうですか。
「ここを曲げてあげると」などといっているオヤジ、「ここを曲げると」と、「あげる」を云わないように努力してみたら。
妙な飾りをすてて、素の日本語で、素の心で話合うことを心がけるべきだ。これができないから、日本ではまともな議論もできない。公式のばではダンマリを通す情けない大人(大人とはいえない)ばかりだ。


★以下の文の追加説明。
筑紫哲也さんは最近は「私たちの国」と言っておられる。私自身、時に「この国」とつきはなしたくなることもある。「このきたねえ国」とか「このろくでもない国」とか。だが、やはりそれでは子供に悪影響をあたえる。(平成15/7/18)

●この国をやめよ 「日本」とか「日本国」というのを嫌ってか、「この国」などと、あいまいな言い方をする人が多い。インターネット時代なのだから、自動的に翻訳される。アメリカの人がみれば、「この国?ディス カントリー?アメリカの事?」と誤解するおそれもある。この国だの、あの国だの、ぼけた物言いではジャーナリストの資格なし。昔は「我が国」といっていたのだが、自分の属する国なのだから、我が国でいい。我が家を「この家」などというようになったら、家庭崩壊も近いことは理解できるだろう。「峠の我が家」という歌があるが、「峠のこの家」では不動産屋の広告だ。歌にもならないだろう。我が国と云うのは右翼で、この国と云うのはリベラリストだというような、なんの根拠もない思い込みがあるのだろう。だから、私もふくめて、みんな教育されてアホになったのだ。目覚めよ。「子ども」もまったく同じことだ。
司馬遼太郎の随筆に「この国のかたち」文芸春秋)がある。(ちゃんとはよんでないけど、というのは、生来のへそまがりで、流行り物には距離をおいているので)なぜ日本といわないのか、よんでもいないでいうのも気がひけるが、司馬も腰がひけているのかもしれない。我が国とも云いたくない。保守的とおもわれるから、などという情けない考えがあたまをよぎるのだろう。「この国」と、だれが、いつ、いいだしたのか、情報をください。すくなくとも、江戸時代にはないとおもうが。しろうとなので知らん、おせーて。


遊具の問題。はこぶらんこの扱いをどうするか。読者の声あり
★平成12年11月14日毎日新聞「みんなの広場」に投書あり。
国が、下記のような経緯から、しぶしぶ事故件数を発表したのを受けての投書です。
「箱ぶらんこも使い方で安全に」というタイトルで、悪者扱いのすえ、公務員の責任逃れのための全面撤去、メーカーの製造責任を恐れての生産中止という最悪の流れを心配したもので、私の主張と全く同じ趣旨だった。(平成12年11月14日記)

よかれとおもって設置した遊具で事故がおきる。
はこぶらんこは、乳児をかかえた親がのんびりとのるには、最適だ。わたしも愛用した。幼児もよろこぶ。親も楽ができる。だが、小学生が数人でこれを目一杯こぎまくると事故になる。これが、裁判になる。

使い方をあやまると、すべりだいでも、マフラーがひっかかって、首つりになったり。ブランコの前をよちよちあるきの子があるいて、ぶつかるとか。いろいろある。私もブランコで子供が「もっと押して」というので、おもいっきり背中をおしたら、子供が吹っ飛んでいった経験がある。幸い前にテントがはってあったので、軟着陸したが、前に鉄の冊があれば、ひどいことになっていた。だからといって、ブランコを、鉄の冊を、非難しない。
子供問題のばかばかしさは、親が常に初心者であり、無知であること。子供を育て上げた経験者の情報が、次代へひきつがれないこと、にある。

平成13年2月にテレビ朝日のJチャンで、この問題がとりあげられた。上記の裁判をしている人というのは、ここに出演した名取先生だ。昆布飴ではない。ナトセンと呼ばれているらしい。マスコミはあまりこういうことに関心がない。思い余って裁判にとりくんだわけだが、最近の司法のくされを指摘するまでもなく、私は?なのだ。裁判のくだらなさを体験されたことはよしとしよう。(Jチャンにかぎらないが、取り上げるのはよいが、あまりにベタベタした物言い、人気とりのための意見など、色つきの報道が多い。もっと怜悧に検証できるように、報道関係者は原点にもどるべきだ。そのシンボルが「子ども」表記の使用なのだ。しつこく云うぞ。)
遊具など、どうせ外国からとりいれたものだ。当然外国でも事故はおきているだろう。ドイツでは、厳しいマニュアルができているようだ。
現場に近い地方公務員は、事故例をよく知っている。にもかかわらず、同じ事故が起きる。問題はここにある。
遊具の構造改善によって防げる事故は多い。箱ブランコの支点を、一人乗りのふつうのブランコのように、ずっと上にすること。振り子の長さが長ければ、その揺れはゆったりしたものになる。現状では製作経費のせいか、支点が 子供の手にふれるところにある。これは欠陥だ。
丸い形の箱ブランコは、比較的安全なのだが、重量があるので、ぶつかればひどいことになるのはあたりまえだ。
地面と箱の間にはさまれるとひどいことになる。ドイツでは地面から40センチあけるというきまりになっているらしい。うろおぼえだが。くわしくは名取先生にききましょう。
 さらに、揺れの角度を制限する必要がある。支点をあげれば、必然的に角度は狭まる。ストッパーも必要だろう。

平成十三年四月 遊具を製作する業界の団体が、箱ブランコを作るのを止めることにしたらしい。小さなメーカー、鉄工所では、製造物責任をとるのはむりだ。止めてしまえということになるだろう。

だが、それでいいのか?宇宙へ飛ぶ時代に、箱ブランコ一つ、安全なものを作れない。これで、日本の科学技術、創造力を維持できるか?にげてしまっていいのか?交通事故で毎年一万人死んでいる。自動車の製造を止めるか?
★岩手県宮古市の小百合幼稚園のレンネル先生は、箱ブランコを使っている。その映像を見ると、ロープを支柱に結んで、一定の角度以上にゆらすことができないようにしてある。園児は嬉々としてブランコにのっている。この体験を子供からうばってもいいのか?「子ども」という人が、しばしば子供の敵であることもある。こうやって、子供たちは、小賢しい人口的な、安全無害な箱入りにされる。これで、彼等の魂をかがやかすことができるか?
川に落ちて死ぬ子供がいるからといって、すべての川に柵をつけるのか?何が大事で何が小事か?

★むかし、私が子供のころ、遊動円木という、おそろしい遊具があった。御存知のかた情報ください。

 子供の周りをすべてクッションでくるんでしまうわけにもいかない。危険を回避する術を体験的に教えること。これをおろそかにしてきた。遊びの中で身につけていくことなのだが。冒険と事故は表裏一体のものだ。うーむ。むつかしいぞ。 

★この記事についての、Nさんからメール頂いた。わたしだけが読んでも、もったいないので、許可をえて一部公開します。

2001/7
はじめまして。いつも御著書のあとがきを読みながら、考えることがありましたが、今日はじめて、ホームページを読みました。 1963年生まれ、高崎、熊本、浜松等で育ちました。 いまどきの公園の遊具、大いに不満です。特に複数の子供で動かして遊ぶものがほとんどなくなっているのです。普通のブランコの他は、滑り台、アスレチックなどで、箱型ブランコは希少価値に近く思っていました。 遊動円木は丸太の両端近くを鎖などで吊るしてあり、数人以上で乗って、子供が盛大に揺らしたものと記憶していますが、違いますか。熊本にはあったように思います。少し前に埼玉の森林公園で大きいものを久しぶりに見ました。都内でもごく小さな低いものはまれに見ますが、子供が乗っているのを見るのは少ない。けれど私と男児2人で思いっきりゆらしているとしばしば子供がよってきて満員となり、交代することになったりします。 私の最高のお気に入りは回旋塔と呼ばれるもので、3〜5m位の支柱のてっぺんを支点として、傘のように円錐形の鉄パイプが取り付けられ、この円錐がぐるぐる回るだけでなく自在にゆれるので、走りながら地面をければ高く上がれるものでした。ぶら下がる円錐タイプのほかに、頂点から取っ手付の鎖が10本ほど下がったタイプがあり、これはかなり高くあがって快適でした。落ちたり、ぶつかったりすると縫う程度の怪我をすること、支柱の根元がさびて折れたなんて事故があったのが消えた理由でしょうか。他にも、地球儀形など回転する遊具は絶滅に近くなっています。ぶら下がって遊ぶシーソーも見かけません。友達と一緒に動かして、大きな動きを楽しむものはほとんどなくなっています。 危険なものは役所の担当者が避けているのではないかと疑っています。けれど、子供の死亡原因の第一は交通事故。多少の怪我の危険があっても、公園が魅力的なほうが、よっぽど安全と思います。家でゲームをするより、みんなで遊んで楽しい公園が必要と思います。 ところで矢玉様、わたしは猫の手もかりんとひとつが一番好きです。いままでなかなか本を読まなかった、小学2年の次男がこれを気に入って毎日読み直しています。かりんとふたつも読んでしまい、図書館の矢玉様の棚を読み尽くす日は近いと思います。(買うのでなくてすみません。)何度も借りている長男と私も含め、かりんとみっつを楽しみにしております。 

★同感です。諏訪神社の御柱祭は究極の遊動円木です。死者もでますが、やめてはいけません。
どうか心ある地方自治体の公務員、議員の方々、小賢しい圧力にまけないで、安全を確保しつつ、使い方を指導しつつ、こういう遊具を子供に体験させてやってください。めんどうだからと、やめてしまってはいけません。その結果、子供がキレルのですから。

.★この問題はむつかしい。ロープで動きすぎないようにしばっておいたら、そのロープをだれかがはずした。とか、予想もできない事件がおこる。

「告発系」の第一掲示板でも議論されています。