ぶたごやへかえるぶたごやへかえる

子ども教の信者は目をさましましょう

子どもと書いたらガキどもという意味になります。子供は無実です、冤罪から救ってください。
 目次
●まんが「子供いじめ」
●よくある質問
●文藝家協会提言案
日本共産党中央委員会よりの回答とそれへの反論
子ども表記問題とは? (初めての方はここを)
「子ども教の信者は目を覚ましましょう」矢玉四郎
  出典 季刊
ぱろる9子どもって何だ?(パロル舎)1999
「子ども表記について新事実発見」矢玉四郎
  出典 季刊
ぱろる10横断する絵本 1999
毎日新聞の記事
●参考リンク 

カウンター


●「子ども表記」について言語学者 F爺・小島剛一さんの記事で、間違いを指摘いただきました。複数ではなく集合だという論は納得できます。逆に日本の辞書(言語学の権威)がだめなことがわかった。「ども」「たち」の説明には「複数」と書いてあります。
「その女たち」は首謀者の女と手下のむさくるしい男でもいいので、女が二人ではない。複数ではない。
こんな指摘は初めて受けました。目からうろことはこのこと。すばらしいです。学校でちゃんと教えましょう。(2015/6/3)
★過去の文に「ども」は複数を表すと、辞書にある通りに書きましたが、すべて訂正します。英語などのような複数ではないことを強調しておきたい。日本語を教える人は留意されたい。(2015/6/14)

●前世紀に「子ども(ガキども」表記を調べた時にわからなかったことが、インターネットによって、わかるようになってきた。長生きするもんだなあ。
 10年くらい前、掲示板などで私の意見に反対の意見があると、「あれは東京大学のパソコンからです」と教えて下さる人もいたが、一体だれが、「子ども」と書けといっているのか、さっぱりわからなかった。
 「子ども教の信者は目を覚ましましょう」という文のなかに出てくる、浪本勝年という人の正体がわからなかったのだが、最近やっとわかった。2014年3月18日の東京新聞が浪本勝年氏の発言を記事にしている。
 教育村では有力者なのでしょう。教師養成にも関わっているので、教師になる人たちが「子供」と書くことができない状況を作った元々の人かもしれません。
  下に張り付けてある毎日新聞家庭欄の記事を書いた松村記者は「子ども」と書く側の人物は、落合恵子さんなどではなく、浪本勝年さんに依頼すべきだったのだ。
 ついでにいうと「子供」と書く側には、吹けば飛ぶような私などではなく、大江健三郎さんに依頼すべきだった。
  
   浪本勝利さんは、新聞にコメントを出す立場なら、「子ども」推進者として表に出るべきだろう。私は相手が見えなくて、手さぐりで、徒手空拳で主張をここに書くことしか出来なかった。 おかげで、児童書の業界から冷たい扱いを受け続け、生活の危機にも陥った。大学などから給料をもらって生活している人には、フリーで仕事をして金を稼ぐ者がどんな苦労をしているかは、おわかりいただけないだろうが。
  下の漫画に描いた「えらい先生」の顔は特定の人物の似顔絵ではありませんので、おことわりしておきます。こんなこと書くと、また干されるでしょうが、バカは死んでも治らない。南無阿弥陀仏。    ( 2014/3/20記)

● 自分に信念がないと、周りを見回してから、そのまねをして発言する。自分で考えて、自分の言葉でしゃべらない幼稚な大人ばかりだ。文化や学問の世界でも、そうなっている。
  国立国語研究所の山田貞雄氏の「こども」の表記の回答もそうだ。以前の甲斐所長の明確な見解から退歩して、ぐずぐずになっている。
  表記の正しい基準を示せないのなら、国立国語研究所は不要である。この山田氏の回答は文科省が「子供」とすると決める前のものだが、決めた以上、文科省はきっちりと指導するべきだ。所長も同じ見解なのか。税金で生活し、権力を委託されている政治家、官僚の責務。(2014/3/8)

 新聞社は国語に関しては国立国語研究所に最終意見を求める。国語の専門家としての知識を認められてその地位にあるはずだ。日本語表記の成り立ちから説いて、よりよい表記を指導すべき者が、無知なために誤った世間の風潮に合わせて自己の保身を計るのなら、そんな公務員は要らない。
  一民間人である私はこの発言のために、十年以上生活をおびやかされてきた。なんという立場の違いだろう。国語学者山田孝雄先生のような気概がほしいものだ。(2014/3/10)

●東京新聞2013/10/7に記事が出ました。

●このあと東京新聞でも、子供という漢字を見ることは極めて少ない。東京新聞には「大波小波」といういいコラムがあるのと、仏教の記事があるのはいいのだが、第一面に重要ニュースでもないものが大きくのっているので困る。(2014/1/2)


●法律では「こどもの日」以外は、児童を使ってきた。
国立子ども図書館ができたときに、初めて「子ども」が使われた。
私はそれに反対し、自民党の村上正邦議員が調査を命じて、当時の課長に全部説明したが、内閣法制局もでたらめだったんだろう。国会では、教育などに詳しい義家議員や山谷議員もいなかったので、自民党は河村建夫議員なのだが、民主党肥田美代子議員の独壇場で、児童問題、国語問題に無知な議員たちが賛成したために、この名称の図書館ができてしまった。
  河村議員はホームページで質問に答えてはいただいたが、理解はしていただけなかった。ドンの村上さんも当時電話で「長く残ることですから、検討します」といっておられたのだが、過ちが残ってしまった。
 「子ども」と書けばガキドモという意味になるのだ。
 おそまつきわまりない。
 「子供」と正しく書いているが、「子ども」表記について、発言はしようとしない大江健三郎さんというノーベル賞作家の無関心な神経を疑いたくなる。
  間に民主党政権をはさんで、どんどん過ちがひろがっていったが、10数年後の2013年に木原議員の活動によって、やっと文科省が訂正に着手したが、まだへなへなだ。
日経以外の朝日、毎日、読売、NHKなどが、このことを報道しないというのも不思議なことだ。それで新聞?それが現在の新聞なんだろうか?
東京新聞のこの記事も、おそらく社内上層部から圧力がかかったのだろう。私の発言とされているものは、わけのわからないものになっている。電話取材では、そんなこと言ってない。ホームページには書いてあるが主要な論点ではない。(2014/3/13)

★訂正『「子供」は熟字訓』と書いてあることがありますが、熟字訓ではないです。「大人」はタイジンと読めるようにもともと中国語ですが、子供は日本でコドモの読みに漢字を当てたものなので、当て字です。中国では孩子(ハイツ)なので、子供という漢字を見せても通じませんが、児童はそのまま通じます。字が簡略化されていますが。意味として「子供」と「孩子」が全く同じというわけではありません。子供は児童に比べて、とてもいろいろな使い方ができますので、安易に「児童」をやめて「子ども」などと書く風潮がはやったことは、大人たちの考えが浅かったというしかありません。(2013/10/4)


●進展がありました。文科省が子ども表記をやめて子供にする。やっとです。説明映像があります。(2013/9/8)

日本教育新聞(7月15日)説明映像 その2 (ここの映像のうちの

木原稔】歴史教科書問題と交ぜ書き、...4月15日投稿分)2013年

3月27日の衆議院文部科学委員会においての、自民党の木原稔衆議院議員の質疑。「子ども」表記に関しては、後半にありますので我慢して見てください。

この映像にでているのが、日本教育新聞の記事にある政府参考人の文化庁次長の人らしい。やりとりが見られる。(2013/9/12)


★産経新聞平成14年10月2日「続国語断想」  この文を含む記事をまとめた本が出ました。必読!
「国語」の時代−その再生への道筋 塩原経央著 ぎょうせい ¥1429 (平成16年2月25日) 


★平成16年10月17日(日)の毎日新聞朝刊に「子供  子ども それとも こども」記事が出ました

  内容は「子ども教の信者は・・・」を読んだ人には、物足りないものですが、「子ども表記」の提案者が羽仁説子だという説と、国立国語研究所の見解(私の書いたことと同じ)が新聞で広く公開されたことは画期的といえる。
タブーとなっていて、「子ども表記」が産経新聞以外で取り上げられたのは、私の知る限り初めてなので、この記事は大いに評価できる。本来なら、文化欄、教育欄で取り上げるべき基本的日本語、また思想上の重大問題なのに、タブーとして意図的に無視されてきたことに、気がついて欲しい。
これが日本の文化の現状です。新聞、出版、文化関係者に心があるのなら、この件の議論を公開の場でなされるようにお願いしたい。これをやらずに子供問題解決はありえない。人は言葉で考える、その言葉を粗末にしてどうして正しく理論構築ができるのか?(平成16年)


テスト下の日本語を声に出して読みましょう
「親も子どももももが好き」「子どもはどの子もどの子も子どもらしい」「もう子どももどうもだめ」「どもる子どももどもらない子どもも子どものうちは子どもどうしで気にせず遊ぶようだ」「親子ともども子どもみたいでもどかしい」「ドコモはどこも子どもでいっぱい」「もと子の子どもももう子どもじゃない」「男子は女子どもとばかにしないでね」「この椅子もこの子の子どものころのもの」「この子どもどこの子?」
これと比べたらわかる。
「親も子供も桃が好き」「子供はどの子もどの子も子供らしい」「もう子供もどうもだめ」「どもる子供もどもらない子供も子供のうちは子供どうしで・・」「親子ともども子供みたいで・・」「ドコモはどこも子供でいっぱい」「もと子の子供ももう子供じゃない」「男子は女子供と・・」「この椅子もこの子の子供のころのもの」「この子供どこの子?」

.★国語便覧 
教科書の出版社は数社しかない。そのひとつ、東京書籍の「新詳説国語便覧」初版1995年・第7版2001年)に「ゆれる表記」として『「子ども」か「子供」か』という項目がある。全文引用する。
『新聞・放送関係では、早くから統一用語として「子供」を使うことになっているが、実際の記事では「子ども、こども」なども用いられる。公用文関係などでは、「常用漢字表」(昭56)に「供」の訓「とも」の例として「供、子供」が掲げられていることから、「子供」の表記を採るようになっている。ただし、「国民の祝日に関する法律」(昭23)では、「こどもの日」という表記がなされている。』


「心のきれはし 教育されちまった悲しみに魂が泣いている」ポプラ社(絶版。2013年出版契約解除済み)刊より


●よくある質問
問い  子供、子ども、どっちでもいいんじゃない?
答え  子ども表記推進者も「子供をやめて子どもにしろ」と主張し、どっちでもいいとはいっていない。これは無責任な野次馬論です。表記は戦後、国が望ましい一つを決めて提示してきた。二つあれば混乱する。南北朝と同じ。天下統一出来ていないわけです。だから校閲者が校正できないので、新聞にも「子ども」「子供」がデタラメに出てくる。書き取りのテストもできない。そんな扱をうけている名詞は他にはありません。
「料亭吉田」と「料亭よし田」は違う店です。(どちらも「りょうていよしだ」と書くことはできますが)「子供」「子ども」で混乱することは許されないことが、わかるでしょう。 

問い  供は当て字だから良くないのでは?
答え  大人も当て字で、大(おと)人(な)でも、大(お)人(とな)でもない。同源で「乙名」というのが辞書にのっている。
大人(たいじん)に当てはめただけだ。当て字を非難すれば、日本語の表記は壊滅する。古事記を見てください。
まず日本語の漢字表記の歴史を

問い  見た目がやさしいからいいんじゃない?
答え  ならば「こども」と書けば良い。現に「こどもの日」がある。
前例を重んじるはずの公務員が「こどもの日」に合わせないのは裏事情があったのでしょうか。

問い  むつかしくてわかりません。簡単に説明して下さい。
答え  ホームページ「面白半分」の「せっかく育てた子供たちが」をお読みください。文化庁の「言葉に関する問答集」ものせています。

答え  中学で習うことのおさらい。一つの漢字に音読みと訓読みがある。音読みは中国語の元々の漢字の読み方。訓読みは文字のなかった日本語の音で、音が先でそれに漢字を当てはめた。「子」という漢字は音読みではシ。論語の「子のたまわく」の子はシと読む。シと読むのが正当で、コと読むのは便法。戸籍関係の法律用語で「子」一字でもコとよむのは例外。養子、嫡子などと二字になればほぼシと読む。「漢字の読み方がわからなければとりあえず音読みにする」と国語教師は教えるはず。つまり、ことさら「子ども」とコを漢字にすると、教養のある人ならばシドモと読みたくなる。だから「女子ども」はジョシドモと読むのが正当。二字セットにして「子供」と書けば、音読みではシキョー、スクとなる。
 ここまで書けば国語教師、言語学者なら、完全に反論はむりだと悟るでしょうが・・・。(2002/12追加)


●社団法人日本文藝家協会の文藝家協會ニュースNo.597に掲載されたものを転載します。
「子ども」表記の誤りを正し、日本語教育を改善する提言(案)
 日本語の基本的な普通名詞である「子供」の表記が混乱しています。その原因は、戦後一部の教育者などが「子供の供は、お供の供だから良くない。子どもと書くようにしましょう」と提案したことにあるようです。一九七〇年代より急速にこの表記が、教育界、児童関係で広まった。現在でも、この提案は続けられており、ついに日本国の立法府である国会の議決にさえ、「子ども」という誤った表記が採用され、国会図書館の施設として「国際子ども図書館」という名称の施設まで造られてしまいました。
 新聞テレビなどでも、なんの脈絡もなく、子供・子ども・こどもの三様の表記が使われています。
 小学校の教科書では、「子」を一年生で教えますが、「供」は六年生まで教えません。意図的に「子供」という漢字を見せないようにしたという疑いもあります。
 基本的な普通名詞である「子供」を「子ども」と改竄した結果、その表す意味は「子共」つまりガキドモということになり、違う語句となります。「子供」は二字熟語であり、「子ども」、「こ供」とは書けません。供は当て字であり、提供、供出、お供などの意味とは無関係です。当て字を非難すれば日本語は壊滅します。日本では江戸時代から「子供」という表記がなされ、広く一般に認められています。
 小学校の国語教育では、漢字の熟語を、教えた漢字は無理やり使い、教えていない漢字は表記することも許さないという方針のもとに、交ぜ書きといわれる変則的な表記にしています。例えば、頭のう、お花(雄花)、石かい石(石灰石)など。
 このような間違った教育をやめて、平仮名表記、ルビの使用によって正しい表記を子供達に教えることは可能です。
 日本文藝家協会は文化を正しく次世代に伝えるために、正しい日本語の表記をすることを提言します。


  女−  子供− 
 −    −      − 
  −     −共       −共 
に複数を表す接尾語を付けることができる。だからを分離できる。だから子どもと書ける。意味はガキドモ
子供  子供だね 子供らしい     を分離できない二字熟語、複数でもない。

●上の文の「複数」というのを訂正します。どう訂正したらいいか思案中。

フランス在住の「F爺」さんから御指摘をいただきました。
「女たち」で表すのは、一人のその女以外に居る人物のは、女に限らない。その女のグループの男や、子供も含まれるばあいがあるので、女の複数ではないということです。なるほど、こんなことは初めて指摘していただきました。集合というか?
手元にある1988年発行の三省堂「大辞林」には、「たち」『名詞、代名詞に付いて、それらが複数であることを表す。』と書いてあるんですねえ。これは改めるべきでしょう。
くわしくは「複数論」をお読みください。(2015/6/2)


子供、子供子供 悪い字だといわれて、いじめられてきた、かわいそうな字をたすけよう。何千年もの歴史を持つ漢字に良い字も悪い字もありません。なぜ子供だけがきらわれなければいけないのか?これは教育者によるいじめです。

文藝として、民間で勝手な表記をすることはかまわないのですが、法律の文や、公文書、学校教育は、そうはいきません。国が基準を示そうとしてきたことです。このばかばかしい矛盾をどう説明するのでしょうか?
辞書を作る言語学者も「子供」について、きちんと考えていない。あいまいな辞書がほとんどだ。子供と子どもは違う語です。文部科学省にも理解された方がおられるようですが・・。


日本共産党中央委員会からは、真摯な回答を頂いた。以下に公表します。(2,001年1月了解済み)
1、「子ども」表記について
 矢玉さんは、熟字訓である「大人」を「お人」と表記できないように「子供」もおなじであり、「子ども」とすれば、「ガキドモ」ということになり、やめるべきだ、と主張されているものと思います。
 常用漢字の付表に掲げられた熟字訓は、熟字についた読み方ですから、矢玉さんのおっしゃるとおり、基本的には「交ぜ書き」はできないものと思います。しかし「子供」は付表には掲げられておらず、表記としては「子供」「こども」「子ども」のいずれも許容されているものと考えます。
 また「しんぶん赤旗」では、「子ども」を「ガキドモ」という意味で使っていないのは当然です。
 文化庁の『言葉の問答集』(言葉に関する問答集のことか?リンクはホームページ面白半分。前半の説明文はわかりやすい。矢玉注)では「『こども』という語は、本来、『こ(子)』に、複数を表す『ども』が付いたものである。……後、単数複数に関係なく用いられるようになった。その表記としては、『子等、児等、子供、児供、小供、子ども、こども』などいろいろな形が見られたが、明治以後の国語辞典類では、ほとんど『子供』の形を採り、『小供』は誤りと注記しているものもある。その後、『子ども』の表記も生まれたが、これは、『供』に当て字の色彩が濃いからであろう」としています。(直接資料を読んだほうがいいでしょう。矢玉注)
 しかし、私たちは、ただ単純に当て字だからとして「供」という字を使わないのではありません。民主主義と人権の運動のなかで子どもは、戦前のように、おとなの「お供」でも、神仏の「お供え」でもない、人権を持った人間だという考えにもとづいています。
 「しんぶん赤旗」でも以前は、「こども」と表記(「子供」表記も)していましたが、ひらがな表記だと、文章のなかで埋没しやすいためもあり、七〇年代後半から「子ども」という表記をしています。これは「人権を持った人間だ」という世界史の流れにもそった考え方も背景にあると考えています。

「子ども」表記を使うという前提であれば、現状では最強の回答だろう。だが、やはりこれは無理だ。「子ども」と書いたらガキドモだという私の意見は認識されたらしい。付表については「友達」とまったく同じことですから「子供」を付表にいれなかった言語学者がさぼっていると私は主張しています。付表に入れるべきです。付表は完全にすべての言葉を網羅していない。例をあげただけだ。付表にないから、日本語の原則をまげてもゆるされるというのは、法律に書いてないから、なにをしてもいいというのと同じ論理だ。
当て字をいけないといっていたら日本語は壊滅します。「供」という字に罪はない。無実の罪を着せられている。「おとも」に中国から輸入した漢字の「供」を当てただけだ。

子供と書くと「オトモやオソナエ」になるというのが、わかりません。一つの漢字にはいろいろな意味があります。子供が供給、供養、供出などの意味をひきずっているということですか??意味は関係ないでしょう。
音から、その表記を借りただけです。江戸時代にコドモに子供という字を当てた人は、後世になって、こんないちゃもんをつけられるとは思わなかったでしょう。これは難癖というものだ。私たちの御先祖は、草葉のかげで泣いているだろう。供がいけないというのが、まず間違い。
付け加えれば、「供」の字の意味の第一は「そなえる」で、オトモという意味は希薄で、トモとよむのは、「共」の字をトモと読んだことから、ひきずられたものだろう。トモならむしろ「伴」の字のほうが、意味は近い。「子供」と書いたときに、「供」の意味は関係ありません。ただの記号と考えるべきです。
(最近出た白川静さんの普及版の辞書で「供」の項を読むと、やはり供には供えるの意味が本来のもので、伴の意味に使う事は誤りと書いてあった。2004/1追記)
たまたま「供」をオトモの当て字とし、また、コドモの当て字にも使った。つまり、二重にその意味希薄なのであって、コドモとオトモはなんの関係もない。「国家安康」という字句で、家康を二つに切っていると難癖をつけたという逸話があるが、これよりひどいイチャモンだ。 
 さらに、「子ども」としたら、「ガキドモ」の意味が浮かび上がってくる。


「子等、児等」は私にはコラとしか読めませんが?(岩波文庫拡大版の「古事記」の注釈のなかで子等とかいて、こどもとルビをふってあったのでびっくりした。なんじゃこれは?)「こども」と書くと文章に埋没する?私は日本でも数えるほどしかいない幼年童話(ひらがなだけでもおもしろい文を書ける)の作家だ。だから、低学年に「子供」を教えろと云っている。名詞と助詞を一瞬にして区別できるのは、名詞が漢字だからだ。まぜがきは、これを混乱させる。
不破議長のお好きな時代物の小説に
「女どもはこの家の者。この子どもも、ここの家の子どもです」
と書いたら「子供」なのか「ガキドモ」なのか、単数か複数かも区別がつかない。
「女どもはこの家の者。この子どもも、ここの家の子供です」
と書くべきだ。これなら子供が二人以上いることがわかる。

★コドモは日本語の基本的な普通名詞だから、特定のイデオロギーによる色をつけてはならない。
 子供の人権を守ることと、言語としての子供とは、きっちり分けなければ駄目だ。コドモという語そのものに、善悪などの価値観をあたえてはいけない。「コドモはかわいい」「コドモはうるさい」「コドモが犬を殺した」「コドモがミサイルのスイッチをおしたので、世界が滅亡した」など、ありとあらゆる価値観の文章を作ることができる。その素材としてのコドモは、素の言語としてあつかわなければいけない。これをごちゃごちゃにするようではお粗末というしかない。

私が四年前(1997年)から、「子ども」表記について発言しつづけたにもかかわらず、「子ども」を使い続ける側の人たちからは、まともな返事はいただけなかった。
日本共産党が回答をよせられたことに敬意を表します。さらに思考を深められ、勇気をもって改善されることを願います。
(2001年記)


●子ども表記問題とは? (2001年2月一部書き換え) 矢玉四郎

●童子をどう子、兄弟を兄だいと書く人はいない。子どもと書くのは、これとおなじです。
これを改めることができなければ、
教育を正すことは出来ない。日本語の基礎をきちんとすることから、すべてがはじまる。
だが、産経以外の新聞は、これをとりあげない。だから、このホームページをつくりました。西暦2000年ごろです。

●私の説明を聞いても、高名な人でも、理解できない人がいる。論理で考える頭脳がないか、理解したのに黙っている人もいるだろう。これこそ大人の腐れだ。
だからこそ、これを正さなければ日本が滅ぶ。これが重大な問題だと認識出来ない人には、教育論などする資格はない。

●「友達」は
付表にのっている熟語で、大人を「お人」、草履を「草り」と書けないように、友だちとは書けないのです。これは中学の国語の文法でわかることです。
友に、達という複数をあらわす接尾語がついて友達ができたのですが、ひとりでも友達なので付表に入れたのです。これをひらがなにしたければ、ともだちと書くのが正しい。
子どもも同じことです。子に、達、等、ども、をつけることができる。子達、子等、子ども。女にも、女達、女等、女ども。このどもは共です。
つまり、
子どもと書いたら、子共となります。女どもでわかるように、ガキドモという意味です。(これがわからないという人がいるのです。これ以上どう説明すればいいのか?)

子供はちがいます。ひとりでも子供です。子供だねと、幼いという意味でも使います。

複数を表すためには
子供達とする。
児童のかわりに使うなら、
子供または、こどもと書かなければおかしい。
子供は熟語です。いわば当て字です。コドモという音は万葉のむかしからあります。「うりはめば こどもおもほゆ・・」と、万葉仮名で書かれています。江戸時代にコドモという日本古来の音声言語に、子供という字を当てたようだ。子供は当て字で二字熟語です。
子ども、こ供とは書けない。
ルビをふるときも二字にわたってふる。時計(とけい)大人(おとな)と同じ事です。これをグループルビといいます。漢字一字一一字につけるのはモノルビといいます。


むかし、昭和二十年代らしいが、羽仁説子というひとが、「供はお供の供だから、付属品のようだからよくない。子どもにしよう」と云ったというのが、始まりのようだが、だとすれば、このひとは傲慢で識見のない人です。また、「じゃあそうしましょう」といってこの40年、子供という字を抹殺してきた人、いったいどういう頭をしているのか理解に苦しむ。
供養、お供えという、りっぱな使い方もある字です。どこが悪いのでしょうか?子供の供は見当外れの当て字だからというが(週間文春99年6月17日号の「お言葉ですが・・」での高島俊男氏の弁)、お供の供もオトモという日本語の音に、中国から借りてきた供という漢字を、その意味をさぐりながら当てたものです。

訓読みというのは、広い意味の当て字といえるでしょう。日本語は当て字だらけです。当て字を非難すれば日本語は壊滅します。
供」という漢字そのものに罪はありません。供は無実です。オトモなら伴という字のほうがその意味を表しています。伴走、伴奏の伴です。

婦人運動、市民運動をされてこられた市川房枝さんは、ちゃんと子供と書いています。もし、羽仁さんが「子ども」と書きましょうといったというのが事実なら、市川さんはその意見に賛同しなかったということではないでしょうか。専門家の方、お調べください。(と書いたがだれも調べないようだ。市川さんはあの世でなげいているでしょう。(2014/1/2)

日本共産党の不破委員長(当時)も、赤旗日曜版でも子供と書いておられる。(1997,8年?のしんぶん赤旗日曜版)
日本共産党には『1970年代から「子ども」と書くことにしてきた』という回答をいただいた。戦後子供に注目してきたのは、市民運動は別として、国政レベルの既成政党では、日本共産党以外になかった。今は自民党以下、票ほしさに、「子ども」と書いて、子供のことを真剣に考えてきた人に擦り寄ろうとしている。日本共産党がまっさきに訂正されることを要望したい。
コドモ、オトモに漢字の「供」を当てたわけだが、中国での「供」が100パーセント、日本語のオトモの意味と合致するわけではないでしょう。
「コドモの供はオトモの供だから悪い」というのは妄想でしかない。仮に、「供」という漢字から、オトモを連想したとして、では主語はだれが設定したのか?「コドモは大人のオトモ」「大人はコドモのオトモ」こんな妄想的な作文をする頭脳というのは、正常ではない。大人という語はどこから出てきたのか?およそ言語学とは無関係な空想ではないでしょうか。あまり学問的な思考ではない。

大江健三郎氏は一貫して子供と書いている。鶴見俊輔氏は最近では(2000年末)「こども」と書いている。この人は「子ども」「子供」「こども」と、くるくる変わる人だ。河合隼雄氏は「子ども」と書いている。この三人で論議をされるといいのですが。(河合さんは亡くなったのでこの提案は引っ込めます。情けない。(2014/1/2))


本来なら、国会議員から文部科学省にたいして、なぜ子供を排除して、子どもと表記するのか、質問がでて当然なのですが、有力な国会議員に子供のことがわかる、その歴史、その背景に見識のある人がいないようです。戦後、子供に関心をもちつづけてきた政党は日本共産党だけだ。したがって、児童文学をはじめ、教育関係など、子供周辺の業界は色濃く日本共産党の影響下にあった。ですが、今は子供問題は危機的状況です。もう一度ゼロから全員参加で考えなおし、新しい状況を作らなければならないでしょう。若い人たちに託すしかありません。(2001/2](これは2013年に実現しました。)


2013年にやっと゛国会議員が動いてくれました。10数年間児童書世界でひどい目にあいました。正しいことをいうとひどい目にあうのは゛今日多いことです。ブラック企業しかり、裁判がはじまった秋田書店の事件を見てもわかることです。私自身も子育て中、ローン支払い中は児童書村の中で苦労しました。いまは開放されて仏教の教え、つまりお釈迦様ならどういわれるだろうか?ということで、世間におもねず行動できます。ありがたいことです。それだけに゛苦労しておられる人、若い人のために発言はしないといけないのでしょう。僧侶にさえ左翼思想にかぶれてへんな言葉を使うものもいる。今後は仏教についても発言する。お釈迦様は何もいうなといわれるだろうがアホがなおらない。南無阿弥陀仏。(2013/9/12)


●以下の文はすこし古いので、割り引いて読んで下さい。かなり熱くなって書いてしまったこともあり、反省しています・・・一応役目は終わったとおもいますので、そのうち消します。(2006/6/9)と、書いたが7年前は公私ともにどん底でへなへなになり、仏道に活をもとめたころです。消さないことにします。(2013/9/21)

国会図書館に 「国立の国際子ども図書館」というものができた。「子ども」は間違いだという意見を
マスコミが取り上げてくれないので、所属する日本児童出版美術家連盟(童美連)から委員を出しているその「設立を推進する全国連絡会」なるものに、1999年に私自身が委員となって運営委員会に出席してみた。らちがあかないので、その「設立を推進する国会議員連盟」というものがあるので、その会長の自民党参議院議員村上正邦氏に「子ども」はおかしい、「
子供図書館」か「こども図書館」にすべきだと要望書を提出した。
 ただちに村上議員本人より直接私に電話があり、国会図書館にも話されて、私は国会図書館の人に会い直接に意見を具申した。
国際子ども図書館と書いたら、国際子どもの図書館となる。中国人なら国際子と読んでしまうのではないか。ということも指摘しておいた。
 だが、その後、まったく返事がない。村上議員は、「なぜ子どもか、その根拠をはっきりさせる」といわれた。だが、その根拠は発表されていない。できるわけがないのだ。そこで、無視してそのまま押し通そうとしている。
これを国会にもちこんだのは、民主党の議員だ。
自民党の議員がこれに無批判にのっているという、おかしな状況だ。子供を旗印にすれば、人気をとれるという根性なのは見え透いている。
(2001年2月現在、これは証明された。「推進する会」は「子ども図書館を考える会」と改められ、飾り物だったの井上ひさし会長は、松井直会長に変わった。)学問のすずめのページを見てみて)一方、文部省のホームページにも、私は「
6年生で習う子供という字をかけないのは、6年生以下の学力だから、そんな人を税金で養ういわれはない」という、めちゃくちゃな文とともに、拙文を送っておいたのだが、何カ月も無視されていたが、村上議員から話が行ったとたん、「ご意見うけたまわりました」というだけのメールがかえってきた。
だが、なぜ子どもと書くかの説明はない。これが、私たちが血税で養っている国家官僚の実態だ。
腐った国家官僚の絡みの事件が次々と暴露されている。日本の中枢部が完全にくさっているのに、まだ中央にたよろうとする日本人ども、日本教育の成果は絶大である。

(村上正邦氏は議員をやめた。KSD問題の渦中にある。議員側の「子ども図書館設立議員連盟」は「子どもの未来を考える議員連盟」に改名されている。会長は扇千景議員になったようだ。2001年4月)


産経新聞では、校閲部長が、子供と書くべしという論者なので、かなりまともだ。
毎日新聞も、熟語のまぜがき(拉致をら致、誘拐を誘かいと書くなど)をやめてルビをふるような流れになってきている。日本語の表記をめちゃくちゃにした責任の一端は新聞にある。新聞界もそのことの反省期にはいったということだろう。毎日にも論説委員クラスに約一名子ども教の信者がいるようだ。鮮烈に教育問題を追っている教育の記者は子供と書いているが、頭の弱い部門では子どもとなっている。朝日は半々というおそまつぶり。意識的に子供と書いているところもでてきたように見えるが・・・


ぜがきを非難している井上ひさし氏は、「国際子ども図書館設立を推進する全国連絡会」の会長(当時)だが、私が出席した過去10数回の運営委員会や、総会には欠席された。というより、初めから出席するつもりなどなかったらしい。また「子どもと本の出会いの会」の会長でもある。「ぱろる9」は、お送りしたのだが、読んでおられないのか。「子ども」表記について見解をお示しください。
まだ、ぴんとこないひとが多いでしょう。
なにしろ小学生の教科書は「子ども」のオンパレード、まぜがきだらけなのだから。
40歳くらい以下のひとたちは、そういうでたらめな国語教育をうけて、だまされてきたことに、気がついてほしい。漢字はマンガや、ゲームで覚えろ。文部省は、子供という字があることを君達に見せないようにしている。


当時の教育関係者が、わざわざ、子供という字の供を六年生まで見せないという方針を作ったのだ。と、私は推測している。
低学年に、子供を教えるべきだ。昔は子供会で5歳の子でも知っていたのだ。なぜ今のほうが無知なのか。
教育者と称するひとたちは、子供のためなどといいながら、「雄花と雌花」という字を見せてやらないぞというなんとも不可解ないじわるをしている。
「お花とめ花」では、大人でも「おはな、とめばな」としか読めない。こんなもの日本語ではない。「御花、止花」か?
教えた漢字はかならず使え。教えてない漢字は見せてもやらないという方針なのだ。だから、子を教えたら、子どもとまぜがきにする。
そのくせ、おかしなことに、息子を「むす子」とはしない、椅子を「い子」とはしていない。教科書に「子ども」と書いた理由に従えば「むす子」「い子」と書かなくてはならなくなる。

いままで国の官僚は、各省によってちがうが、児童とか子女とか言っていた、民間人の一部、子ども教の信者が「子どもの権利条約」といっているものも、日本国の法律で、正式には「児童の権利に関する条約」なのだ。
児童憲章もあるし、児童福祉法、こどもの日などもある。
文部省に「子ども」表記を持ち込んだのは、三木内閣のときの、永井文部大臣ではないかと推測している。直接お伺いしようと思っているうちに、亡くなってしまった。人格者として高名のようだが、間違いは間違いだ。きっちりと決着をつけるべきだ。次代を担う子供達のために。それが大人のつとめだ。

若者がはやらす流行語とは性質がちがう。きっちり区別しなければいけない。

子供、教育関係者で、このことを指摘し、発言する者はまだまだ少ない。日本人は、見ざる言わざる聞かざるの猿ばかりになった。自分の頭で考える力を失ってしまった。

でたらめな教育で泣いているのは子供だ。命を落とすものもいる。学校からにげだして、とじこもるものも数しれず。親は仰天する。
子どもと書いたらガキドモです。子供という字はわるい字ではない。児童だって、べつに、わるい呼び方ではないだろう。児も、童(わらべ)も素朴な字ではないか。
日本を「日ほん、日ぽん」と書かれて平気な人はいないでしょう。

●1999年9月末記 新発見
講談社学術文庫「日本語の変遷」28〇円
金田一京助著という本があります。
元は戦前に書かれたものですが、戦後、幾度か出版されなおして、最終的に1976年に講談社文庫として出版されています。
内容はまさに「日本語の変遷」です。金田一といえば、今では探偵だとか、探偵の孫とかいうことになっていますが、30年まえには、金田一京助氏のことでした。氏は1971年に亡くなっていますので、まえがきを子息の春彦氏が書いておられます。
当然ですが、京助氏は子供と書いてあるのですが、まえがきの春彦氏の文に、「子ども」というのが出てきます。これは、京助氏の息子である自分のことを「子ども」といっているので、当然、この「ども」は複数をあらわすものではありません。
日本の言語学者のなかで、もっとも有名な京助氏が「子供」と書いているのに、その子息である言語学者が「子ども」と書くのですから、これは確信して書いているとしか思えません。
春彦氏のことは、このあとにある拙文「子ども表記に新事実発見」に書いてありますので、参照してください。
この問題は、戦後の日本語の変遷だけでなく、思想の重要な問題をふくんでいると思います。

子ども教の信者は目を覚ましましょう
矢玉四郎 絵本・童話作家 (1999)

近頃「子ども教の信者」が増殖している。「子ども教の信者」とは、子供を子どもと書く人々のことである。 つい最近、私が子供と書いた原稿を子どもと書き直されたので、おやと思って、回りを見回すと、あるわあるわ、古くは「子どものものの考え方」波多野完治・滝沢武久著(岩波新書)から、教育関係の本はほとんど子どもと書いてある。まのぬけたことに、私は子どもの権利条約のポスターに名前を連ねていたのだ。

子どもと書くのは間違いだ。新潮文庫「桜もさよならも日本語」丸谷才一著(以下個人名に敬称を略す)に国語教科書を読むという文があるので先を急ぐが、漢語をひらがなで書くと、大人でもわけがわからなくなる。丸谷のいうように、想像を想ぞうなどと書くのはおかしい。私の童話では頭のうなどとは書かない。あたまと書くか、頭脳と書いてルビをふっている。教科書準拠にはしないということだ。これには出版社とけんかをする覚悟が必要なのだが、それには体験に基づいた理由がある。
私が小学四年生のとき、社会科の教科書に「あんのじょう」という言葉がでてきた。
欄外に、おもったとおりになることと解説がついていた。しかし、「あんの」とはなにか?「じょう」とはなにか?奇妙な言葉があるものだと思っ
ていた。中学になって「案の定」という漢字に出会って、はじめて納得した。小学四年生のとき、私は講談社の「源平盛衰記」などを読んでいた。
漢字だらけだが総ルビだから、源義朝もヨシトモと読めた。子供の科学や、リーダーズダイジェスト、サンデー毎日も読んでいたし、主婦の友まで愛読していたので、大概の漢字は読めた。だから、教科書に「案の定」と書いてあれば意味はつかめたはずなのだ。中学生の私は、あの四年生の社会科の教科書を作った大人は馬鹿で意地悪な人間であると断定した。この考えは今でも変わらない。
子供のドモは、もとは野郎共のドモのように、人を見下して使う複数を表す接尾語だったようだ。共、等、達という複数を表す接尾語はいずれも子に付く。子等はコノコラと、そばにいる子を指すときに使う。子達は関西ではオコタチなどと、現在でも使う人は多い。子共はガキドモという意味だ。だが、子供の供はすでに接尾語ではない。野郎共達、男共等とはいわないが、子供等、子供達とはいうことをみても明白だ。子供はコドモという不可分な一語だ。子ども表記は許されない。これが許されるのなら、こ供と書いてもいいのか。親子をおや子、息子をむす子、迷子をまい子、子孫を子そんと書くだろうか。大人を大となと書くのと同じくらいおかしな表記なのだ。こんな表記がどこで発明されたのだろうか。
 子供の子は一年生で習う。教えた漢字は、なにがなんでも使えというのが今の強迫的な教育だから、こどもと書けばいいものを子どもと書くようになったらしい。教えた漢字はその文にふさわしくなくても無理矢理使い、逆に教えていない漢字は一切使わないという方針がマニュアル化されていて、本来教科書とは関係のないはずの児童の読み物でも、編集者が執筆者の原稿を子どもと書き直す。頭脳と書けば、頭のうとしてしまう。私にはトウノウとしか読めない。頭は二年生、脳は六年生で習う。そこで五年生以下の子供には脳という字は見せてもやらないぞという、じつに意地の悪い教育なのだ。

六年生以上の本には子供と書くべきだろう。頭のうは当然頭脳となる。
しかるに、子どもと、友だちだけが、大人の読むものにまで、このおかしな表記のままにおかれているのだ。友達の達も、元は複数を表す接尾語だったのだが、単数でも使う。友達は、当用漢字音訓表付表というものに、大人、時計、相撲、稚児、息子、草履などともにのっている言葉だ。草りなどと書けないように、友だちと書くのはおかしい。こんな書き方をするからダチなどという言葉が作られるのだ。
教育関係者がなぜ子どもと書くのか?昭和五十四年発行の「ジュリスト増刊総合特集 日本の子ども」(有斐閣)に「子どもをめぐる法制度−子どもの年齢区分・権利保障を中心に 浪本勝年」という一文があり、「子ども」と表記する理由と書いてあった。抜粋する。
(この浪本という人がどんな人なのか当時はわからなかった。2014年3月18日の東京新聞が浪本勝年氏の発言を記事にしている。説明には大正大学元教授(教育政策)とあった。せまい教育界のなかでは、知られているのだろうが・・・      2014/3/19記)

“では、意識的に『子ども』と表記するようになったの、いつごろからであろうか。この点について山住正己氏は、「『子供』ではなく『子ども』と書くのが拡がったのは、漢字の使用制限とも関係があり、戦後のことである」と書いている。たしかに、山住氏の指摘するとおりであろう。そして、とりわけ教育界において「子ども」という表記が、しだいに幅広く使用されるようになってきたのであって、今日、教育関係雑誌などでは、ほとんど主流をしめているといってよい。「日本子どもを守る会」(1952年結成)や宮原誠一ほか編の岩波講座『教育、第七巻・日本の子ども』 (1952年)などは、「子ども」という表記を用いた比較的初期のものではなかろうか。”と書いてあり、そのあとに“一九七〇年の第二次教科書裁判第一審東京地裁判決(いわゆる杉本判決)で判決文のなかに、はじめて「子ども」ということばを意識的に使用したのであった”などとある。(杉本判決は子供 矢玉注)

さらに判決文のあと“このようにみてくると、通常の法律用語(官庁用語)である「児童」「生徒」「子女」等を用いないで、しかも「子供」でなく「子ども」と書くことには、それなりの意味がありそうである。この
点を、いちはやく鋭く指摘したのが兼子仁氏であり、兼子氏は、一九七〇年の杉本判決当日、次のように書いた。「判決文が『教育を受ける権利の主体として『子供』という言葉をはじめて使ったところにも、裁判官がいかに教育学に親しんだかがわかる。(兼子氏が「子ども」と書いたところ、新聞社の方で「子供」となおしたところにも、表現上の興味深い問題を提起している)。”
とあり、さらに“以上のようにみてくると、現代において、発達の可能態であり、人間的に成長・発達する固有の人権主体であると考えられる子どもは、「子ども」と表記するのがふさわしいということになる。”と書いてあるのだが、おいおい、わからんよ。抜粋のしかたがへたかもしれないが、全文は図書館で見ることができるので悪しからず。とにかく裁判官が判決に「子ども」と書いたというのだが、子供となおした新聞記者のほうがまともだ。供よりどもがいいという理由ははどこにも書いていない。「子ども」はいいんだとしかいわないのだから、困ったものだ。


この論文には子どもの表記方法に関して数冊の本を挙げているので、研究したいひとは参考に。といっても古いから手にいれるのが大変そうだ。だれかやって。
確信犯的に「子ども」と表記したひとが教育界か、法曹界にいたらしいことはわかった。おそらく子供という伝統的な表記をやめて、新しい子供観を表現したいとして「子ども」という表記を思いついたのだろう。意図はわかるのだが、造語が汚いのだ。センスが悪い。先にのべたとおり、これではガキドモになってしまう。
だが、とにかくだれかが「子ども」と書き、これはいいものだから、みんなも使えということになった。これは宗教に似ている。オウムもそうだが、新興宗教ではその宗教独自の言葉を作る。お光りとか、御霊電とかいうような言葉を作り使用する。一般の人にはわけがわからないが、信者になればわかる。そしてその言葉を世間に広めるのが信者のお勤めとなる。その言葉は一種の踏み絵ともなり、信者でないものを区別する道具でもある。「子ども」と書く人は、教育学に親しみ、子供を守る「子ども教」の信者と認定されるのである。逆に子供と正しく書く人は、教育に無関心で子供をないがしろにする人という烙印が押されるのである。空恐ろしいことだ。戦前の国家による言葉の言い換えの強制と同じだ。
ことわっておくが私は右翼ではない。こどもの権利条約にも賛同している。だが「子ども」表記には断じて反対する。子供のために、ただちにこのばか表記をやめるべきだ。こどもの権利条約でいいではないか。
ほとんどの人は、深く考えずに「子ども」と書いているのだろう。えらい人が立派な出版社で使っているのだからいいのだと思ってしまう。権威に盲従とはこのことだ。国語にうるさく、丸谷から語感の鋭い人と信頼されている井上ひさしでさえ「子どもと本の出会いの会」の会長だし、思考の鋭い宮台真司も入信しているし(宮台氏には会って確認したところ子供と書いていました。編集者が勝手に子どもと変えてしまうということがわかりました。矢玉注)

、朝日新聞は子ども教築地教会となっている始末だから、恥じることはない、改めればよいのだが、子ども教のマインドコントロールから抜け出せるか、日本人ども。
人は思考のかなりの部分を言語に頼る。同じ言語は同じ意味を持つという了解のもとで、他人との伝達にも言語を用いる。言語はその言語を使用する者みんなの共有財産だ。だから若者が勝手に造語すると人はいらだつのだ。若者の造語は遊びだが、「子ども」表記は確信犯である。公務員は日本語を守る義務がある。勝手に奇妙な用語を使用して共有の財産である言語を汚すことはゆるされない。判決文に子どもと書く裁判長など公正でなければならないはずの裁判官としての資格がない。

ついでにいえば、売春と区別するためとかいって、勝手に買春をカイシュンなどと読ませるなど、これも言語にたいする犯罪である。では売春はウリシュンか。言葉を大事にしなければ、思考も正しくすすめることはできない。

これを矯正するために、「子ども」はガキドモと読むことをおすすめする。ガキドモの権利条約。大人の本音が表現され、かえって子供の信頼を得るかもしれない。 この文のテーマ「子どもって何だ?」は「がきどもってなんなんだよ。ばかにするなよ、ちゃんと子供と書いてくれ。」というこどもの声を代弁したものです。


ぱろるの文は以上です。
子供の表記が定まらなければ、子供について議論しても全部うそになります。
私は童話作家なので漢字の使い方に敏感になっています。
児童書の出版社が教科書準拠をおしつけてきますが、干乾し覚悟で文学としての表記にこだわっています。童話や絵本が教育の下請けであっていいわけがありません。
今、国立子ども図書館がつくられようとしています。 国立こども図書館とただしく表記するべきでしょう。
美智子皇后が「子供時代の読書の思い出」を発表されたのですが当然子供となっています。ところが年末に朝日にでた広告では「子ども」と勝手に変えていたものがありました。
皇后の児童文学にたいする卓見をごらんください。不破共産党委員長も正しく子供と書いています。
1998年11月記

★この文は1998年今から15年も前に書いたものです。干乾しになりました。最近は「童話作家は神の代理人です」といっています。時の政府によって変わる教育の下請けに成り下がってはいけない。現在の教科書を補足する本を出していくのも児童書出版社の仕事ですが、「七歳までは神の子」(解釈はいろいろできますが)といわれている子供の長い人生に影響する作品を書くということは、神の代理人となることです。できませんが、心構えはそうあるべきです。南無阿弥陀仏。(2013/9/23)


子ども表記に新事実発見

矢玉四郎 絵本・童話作家 (1999)

前号「子ども教の信者は目を覚ましましょう。」の文中で社会学者宮台真司氏も信者だと書いたが、誤りです。私が名前をあげた人には編集部から本を送ってもらったが、宮台氏に会って確認すると「読んでません」というつれない返事。宮台氏は「基本的に子供と書いている」といわれた。編集者が「子ども」と書いてしまうということがわかった。お詫びして訂正いたします。
対談の相手がガキドモ教の信者だった。「学校的日常を生きぬけ」(教育資料出版会)での共著者藤井誠二氏のような若いひとは、小学一年から教科書で子どもという表記を刷り込まれてしまっている。私はまずこの教育がまちがっているというのが一点。だがこれは正式に国が採用しているものだから石を投げるにとどめている。
問題は六年生で習う子供という語を,どうして使わないのかということなのだ。学校の教師が子どもと書いている。どの面さげて六年生に「子供」という字を教えているのか?文部省はきちんと指導しろといっても、文部官僚に限らず国家公務員にもガキドモ教の信者は多いのだから、話にならない。
自分が刷り込まれてきた教育を否定するのはむつかしい。すでに大脳の深部まで犯されているからだ。左脳で論理がわかっても、右脳の子どもという字面のイメージがじゃまをする。改めるには痛みをともなう。だが、やってほしい。いまがその時だ。
他の人については確認してない。なんの反応もない。朝日新聞には国語審議会委員の小池論説委員に手紙を送った。丸谷、井上、大野晋の三氏は朝日新聞でたびたび日本語について語っておられる。本も出ている。朝日新聞からも話が行っていないはずはないとおもうが。社会部長や学芸部長、論説委員にも子どもと書いているひとがいるから、確信犯である。なぜ子どもと書くのか、朝日新聞の正式な回答をお願いします。国語審議会と数名の委員にも送ったが、返答なし。

編集者が子どもと書くのはなぜか?もう児童教育関係の出版界ではお約束になっている。元凶は岩波書店か?私はこれを調べていくにつれてぞーっとしてきた。岩波新書ではほとんど「子ども」で「子供」を見つけることは困難だ。東京大学名誉教授の肩書のある太田堯の著書「教育とは何か」本文はすべて子どもだ。中で「子やらい」(大藤ゆき『児やらい』ジープ社)の序の柳田国男の文を引用しているが「子ども」となっていた。柳田は子供と書いているはずだとおもって、古本をあさっていると、この本は手に入らなかったが、店主が「ばかだねー」といいつつ二冊の本を示した。一冊は「こども風土記」柳田国男著(昭和十七年初版、二十一年再版。朝日新聞社発行)で、本文はすべて「子供」だが、序を見てひっくりかえった。「子どもと某お母さんたちとに」とある。「昭和十六年十二月十四日伊豆古奈温泉に於いて著者しるす。」となっているから柳田も温泉でぼけたらしい。柳田研究者は調べてみて。
もう一冊は「私の岩波物語」山本夏彦著(文芸春秋社)これはぜひ読んでもらいたい。私がデザイン学生だったころ雑誌「室内」を講読していたから、三十年ぶりの夏彦節だ。岩波朝日がわかる。目から鱗の痛快本だ。一か所だけ子どもとなっているのはご愛嬌。
岩なみ書店の方は(失礼、岩波書店でした)岩波文庫を読んでください。子供という字がのっています。広辞苑の「子供」の項も見てしっかりお勉強しましょうね。大辞林や新明解国語辞典もいいですよ。
(岩波文庫では「こども風土記」の子供を子どもと改竄していることが、あとでわかった。ちくま書房版と比べれば、確かめられます。)
とんでもない辞書を見つけた。「日本語大辞典」(講談社)では見出しは「子供」だが本文は「子ども」で、「こどもの日」の説明さえも「子どもの人格を重んじ」だと。監修者は国立民族学博物館長梅棹忠夫、文学博士金田一春彦、京都大学名誉教授阪倉篤義、聖路加看護大学長日野原重明。これだけ肩書のだんびらふりあげたのなら、きちんと説明してもらいましょう。
一方、よい辞書を見つけた。一九九八年発行の最新の辞書だ。学研から御歳暮でもらった「新世紀ビジュアル大辞典」(学習研究社)これには子ども表記はいっさいない。子どもの権利条約をひくと「こどもの権利条約」と書いてあり「児童の権利条約の通称」とある。この辞書の監修者も文学博士金田一春彦氏である。あんたはどっちをとるのか?
私は数冊の辞書で子供をひいてみた。前号の文はおっかなびっくり書いたのだが、あそこにすべて書いてある。だれも反論してこないのは、私の指摘が正しすぎるからだ。「子供のどもは複数をあらわす接尾語」と、どの辞書にも書いてある。踏み込んだ辞書でも、せいぜい「複数の意味は現在では薄れている」という程度だ。
「子供らしい」をどう説明するのか。「あいつ等らしいね」の等は接尾語だから、あいつと等を分離できる。「あいつらしい」と単数も可だ。「子供らしい」の供が接尾語なら分離できるわけだ。「子らしい」だな。まるきり不可能ではないが、なんだこらしょだ。分離できるのなら「子ども」でもよい。ただし意味はガキドモだ。
後で書くが、猪瀬直樹ホームページで山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ・・・」を提示されたひとがいたが、元は万葉仮名だとおもうが、この子どもは分離可能で、具体的な○○ちゃんという自分の子等をを示すもので、うちのかわいいガキドモと解釈できる。吾子でも可なり。その反歌で「勝される宝子にしかめやも」とあるように、子供一般は「子」といっている。だからこの歌は子どもと表記していいのだ。
こんな古い時代ではなく、その後コドモが子供一般の概念を表し、「あいつ子供だね」と、幼いという意味をもふくむことになったとき、すでにドモは接尾語ではなくなっていて、コドモという不可分の熟語になっている。「あいつ子だね」とはいえない。
コドモという音が先にあり、それに子供という字をあてたわけだ。当て字だ。熟字訓とかいうらしいが、付表にのっているのがこれで、時計、息子、父兄、友達などだ。子供をどうして付表にいれなかったのか。言語学者の腰がさだまっていないのだ。

おさらいをする。子に複数をあらわす接尾語どもがついたものが子どもだ。これを漢字にすると、野郎共と書くように子共となるはずである。がきどもという意味だ。山上憶良が子どもというとき、謙譲の意味があるだろう。女どもといえば、初期には謙譲であっても、やがて軽蔑となる。私たち女ども・・・は謙譲だが、お前ら女ども・・は軽蔑だ。
女子供というとき、初期の女ども、子どもという意味になるだろう。軽蔑である。
共が供になったわけは発見できなかった。同じものと考える。普通熟語といえば漢字が先にあり読み方は従だ。たとえば作品、教育なとだが、これは中国人に見せても通じるような感じがある。これにも湯桶読み、重箱読みがあるように乱れがあるし、明治時代に作られたものもある。

文部省生涯学習振興課長(今は政策課長らしい)寺脇研氏の教育改革についての発言には目を見張る。文部省のいままでのイメージとは随分ちがうぞ。このひとこんなこといって文部省からいびりだされるんじゃないかと心配になるほどだ。
だが、子ども表記はただちにおやめください。そして全国民に正しく子供またはこどもと書くように生涯教育してください。私は生涯いいつづける。
事態は深刻だ。大学の教育学部の教授が子どもと書いている。以下は私の妄想だが、当然学生も子どもと書く。ひょっとすると子供と書いたら赤ペンをいれられているのかもしれない。学校の教師に子どもと書くひとが多いのは、単に岩波新書などを読んで勉強したからではなくて、教育学部全体のお約束として強制されているのかもしれない。
学校の教師になりたいひとは、教授のいうことをよく聞いて、教員免許を取得しなければならないのだから。学生が教授に異論を唱えたら、そのひとは学校の先生になることはできないだろう。

念のためにいうが、単に子どもという表記の問題ではない。先生ひとりひとりが、自分の考えで授業をすすめることのできる頭を作っていかなければ、学校はこのまま立ち腐れとなる。教育の荒廃を考えるのには、子ども表記を正すことからはじめなければだめだ、ということがわかるだろう。
編集者や新聞記者が、「子ども」と書くのが良いことだ、とおもってしまうのも無理もない。子供の人権を主張する法律関係者、公務員、国会議員までが子どもと書いているのだから。きわめて危険なことだ。それにしても、「子供」より「子ども」がいいんだときちんと説明できるひとがいないのは、どういうことか?その説明が納得のいくものであれば、私も子どもと書いてもよい。説明してください。逃げてはいけない。大人がそういうことでは、子供が育たない。まして教育評論をしているものが逃げてはいけない。
日本共産党の志位書記局長の教育論にもうなずくことが多い。お子さんが学校から「時計がわからない」といって泣いて帰ってきたという話を新聞で読んだ。家にある教科書を見てみておどろいた。でたらめである。これではわかるわけがない。そこで私は「ちゃんとわかるとけい」(ポプラ社2001年9月ごろ発売決定、すみません、こんどこそ本当でしょう。(2001年5月記)という本を作りました。全国の先生方、この本で、わからないといって泣く子供はいなくなるはずです。ぜひお読みください。(12年前にこう書いたが、この件もすったもんだしました。ポプラ社とは出版契約解除しました。リメイクした「時計がわかる」の出版をまっているところです。(2013/9/21)

共産党支持者に子どもと書くひとが多いが、志位書記局長は自分の頭で考えることができるひとだとおもう。子ども表記についてぜひお考えください。
しんぶん赤旗日曜版でも「半共ジャーナル」の黒田清氏は正しく子供と書かれている。時代小説好きの不破哲三委員長も子供と正しく書かれている。共産党の地方議員の方、広報出版関係の方、委員長にならって子供と正しく書くことはできませんか?
いずれも故人だが、市民運動家の市川房枝さんも、言語学者の金田一京助氏(春彦氏の父君)も
子供と書かれている。
もうおひとり御名前をあげさせていただく。美智子皇后も正しく子供と書かれていることは、児童書関係者もすでに御存知のことと推察いたします。
この件に関しては右も左もなく、ただでたらめなのだ。政治状況に似ている。

朝日新聞の天声人語といえば、大学入試の問題として採用されることを宣伝文句としているほど、いわゆる権威となっている。一九九八年六月二九日の天声人語を抜粋する。「・・・干しぶどうも空からきて、子供たちを喜ばせた。」その六行後に「・・・二日間、子どもたちにあめ玉や・・・」とある。間に「それから五十年」という文があるから、五十年たつと子供も子どもになるのか?わけがわからない。こんなものを大学入試の問題にされちゃ、子供がかわいそうだ。
見た目をやさしくするという意見があるが、供はわずか八画だ。朝日の朝は十二画だ。きょうから「あさ日新ぶん」とされるがいい。中には「子ども達」などと書くひともいるのだ。漫才のネタになる。
友達を友だちとしたくなるのは、まだわかる。が、これもまちがいだ。なにしろ付表にはいっている。友と達は分離不可能だ。ともだちと書けばよい。
とにかく子どもと子供が混在して、でたらめなのだ。これを矯正するために「子ども」はガキドモとふりがなをつけること。公務員には「子供」という漢字の書き取りのテストをすることを提案する。
小学校六年生は子供という字を漢字練習帳で練習する。これは国が定めた教育ではないのか。おまけにハネやトメまできびしく赤ペンをいれられている。子供に厳しい教育をしておいて、教師が子どもと書くとは何事か。新聞が子どもと書くとは何事か。ついでにテレビのテロップを書くひとにもお願いしておく。

ここまで書いたら、私は児童書の世界では四面楚歌だ。だがひとりひとりの子供の現状も四面楚歌なのだ。かれらは地獄のなかでもがいている。それをおもえば屁の河童だ。
この文は前号の文の反響とその後の経過を書かせてくれと、編集部に無理強いして書いている。去年末時点で読者からの反応もゼロ。活字媒体は衰退の一途をたどっていることがわかる。日本人の考える力、言論する勇気が衰えているのだ。
そこでインターネットを使ってみた。文部省のホームページには送ってあるが返事なし。日本語のことだからと日本文芸家協会をさがしていると、ペンクラブから、猪瀬直樹ホームページにぶちあたった。掲示板があったので、ぱろるの文をそのまま掲示したところ、すぐに反応があった。しばらくやりとりをした。
国立国会図書館にもメールをいれた。国際子ども図書館というものがつくられようとしているからだ。意外にもちゃんと返事がきた。はじめは内部では「児童書の図書館」としていたが「国立国会図書館に設置する児童書等の利用に係わる施設に関する調査会」(栗原均会長。委員は有識者により組織。)が答申した報告書の中で提示した名称「国立国際子ども図書館」が元になっているということだ。その後、各団体等から反響があり名称も多数意見ということになったようだ。
子供のことを狭い範囲の子供関係者だけで考えるのはだめだという結果がすでに出ている。しかるに、相変わらず有識者とかいうひと。公務員と顔見知りの一握りのひとたちだけで勝手にことが運ばれている。まちがいもそのまま固定されてしまう。
五月五日は「こどもの日」だ。児童を子供としてもよいし、ひらがなでこどもとしてもよい。なぜ子ども図書館か。調査会がどういおうと、決めた責任は館長にあるのではないか。国際子ども図書館設立議員連盟(会長村上正邦参議院議員)なるものがあるようだ。国会で議決するということか?おおやけに説明してもらいたい。私は断じて反対するが一国民の手にあまる。(村上正邦議員からは、後日、直に電話をいただき、誠実な返答をいただいた。矢玉注)
この問題は教育関係者や子供関係者のみにて議論すべき問題ではない。日本の文化思想の問題であり、しかも岩波朝日文化人のすきな西洋の白人の助けを借りることができないのだ。日本語を使う人々よ。日本国籍をもっている必要はない。日本語を使っているひとすべてに、意見をいう権利がある。
だが、世の論客も子供に関心がうすい。それをいいことに子供関係者が勝手なことをやっている。誤解をおそれずあえてめちゃくちゃなことをいうと、子どもと書くのは子供の敵だ、とまではいわないが、全面的な信用はできない。危険だ。
変化のきざしもある。インターネットで「こどもの権利条約」となっているホームページを発見した。
日本子どもを守る会も、日本こどもを守る会と正しく表記されて、新しく出発されることをお願いしたい。
朝日新聞の論説委員には、漢字練習帳をプレゼントしてもよい。子供、子供、子供、子供、子供、子供、子供。これが教育漢字の正しい表記です。
これは文字通り、子供のけんかだ。


ぱろる10の文は以上です。初めはおっかなびっくり書いていたのだが、やがて自信が確信にかわった。
その後、産経新聞1998・11・23にのった校閲部長の塩原氏が書かれたコラム『コドモは「子供」と書くべきだ』を読むことができた。さすがに、新聞記者らしく、私よりも簡潔に説明されている。
「羽仁説子」説はここからいただいた。塩原氏もいうように、「子供の人権などという言わずもがなを文にせずにいられないのは、日本人の流儀ではない。」50年前にあった子供会はどこへいってしまったのか。西洋の学問をとりいれるのは、明治初年の福沢諭吉以来のことだが、そのために、日本古来のことごとが排撃された。日本では、小さな子供は、天からのさずかりものとして、ときには神様に近い存在とされていた。近代になって子供を発見したとかいう西洋都市社会のマヌケとはちがうのだ。
福沢諭吉の「学問のすすめ」をおすすめします。今とおなじような状況にあり参考になる。だが、和の文化を明治いらい 粗末にしてきたことは反省しなければならない。江戸が見直されるゆえんだ。


●少年少女はどこへ消えた?
●児童書に子ども表記が登場するのはいつからか?
偕成社の今村廣会長から頂いた「偕成社五十年の歩み」非売品)に年表がある。本のシリーズ名に初めて「子ども」が登場するのは、昭和四十年(1965)だ。それまでは、児童、少年少女、という語が使われているのだが、「世界の子どもの本」というシリーズが出ている。
 東京オリンピックの翌年だから、私は大学生だった。文学を専攻したわけではないから、児童書など見るはずもない。この年表によれば、その後「子ども」表記は増え、反対に少年少女が消えてゆく。
昭和五十四年(1979)の「少年少女ドキュメンタリー」が最後だ。その後、「創作こどもクラブ」はあるが、「子供」はついに目にふれることがなくなったのだ。というより、「子供」は始めからない。「少年少女・児童」から「子ども」へ移行したようだ。これは、子ども表記を推進してきた人たちの弁とも符合する。


●実録子供のけんか日記
 
●なぜ子どもと書くようになった?   
 一九九八年十一月二十三日の産経新聞に塩原経央校閲部長の「コドモは「子供」と書くべきだ」という文がのっている。
 
(共同通信社が加盟社を対象に出している新聞の用字用語についての情報雑誌『用語委員会だより』四十七号に、同社社友の上田融氏が「『コドモ』の表記をどうするか」という論説を寄稿している。
 コドモは「子供」ではなく「子ども」と書くのが望ましいというのが上田氏の提案である。最近は文部省で出している『教育白書』でも、「子ども」という表記が採られているとのことだ。)
(「子ども」の源流の表記の一つは上田氏の推論では「『供』という字は『お供』の『供』、付属物の扱いみたいだ」という羽仁説子さんの所説にあるらしい。)
 
子どもと書きましょうと、いっている人も、なぜ子どもがいいのか、わからないのだ。だから、私の疑問にだれ一人答える者がいない。説明できないのだ。できるわけがない。デタラメなのだから。
 おまえのいうとおりだと、即刻改めた人は、数名いる。無視して使いつづける人は数多い。反論してくる人、数名だが、ガキドモでいいんだ、と開き直る人二名。論理で説明できたひと0名。
 この反応を見ていると、日本は芯から腐れきっていることが、よくわかる。私は、呆然としている。
 これは国歌国旗問題よりも、もっと根の深い、ぞっとするような大問題だ。
 整理してみよう。情報が少ないので正確ではないが、たたき台とする。たたいてくれ。 一九五〇年代か、六〇年代に羽仁説子が「子供の供という字は、お供のともだから、良くない。子どもと書きましょう。」という珍説をかかげた。事実かどうか知らないが。
 なかには、「なんじゃ、そりゃ?」と首をかしげる人もいただろうが。なにしろ羽仁説子は、自由学園創立者として名高い羽仁もと子の長女だ。
 羽仁もと子は、辞書にものっているほどの人物だ。アルファ大世界百科にはこうある。(1921年(大正10)自由学園を創立、文部省の認可によらないフリースクールの夢を実現し、日本の自由主義教育に1ページをのこしている。)これはすばらしい。(説子が創立者という記述のサイトもある。羽仁家には有名人が多いので、だれがだれやらわからなくなるが、国会図書館関係にも羽仁五郎の名が出てくる。羽仁進さんは現役だ。
 いずれにしろ、教育界では影響を受けたひとは多い。羽仁もと子はビッグネームだ。日本の教育者達の頭のなかには、羽仁印ブランドが輝いているらしい。
 一度、ブランドを信奉すると、みそもくそもいっしょくたになる。
 教育者は合唱するのがすきだから「それはいい、それはいい」と合唱したのだろう。
 アルファ大百科辞典には、こうも書いてある。(大正デモクラシー期にはいると「子供之供」「新少女」などもあわせて発行し)
 おいおい、子供之友だよ、子供之友。もと子は子供という字の雑誌を発行していたのだ。  
 もう、わけがわからん。あほらしくて、つづける気力もなくなる。だれか、研究して。論客として名をあげるいい機会です。私にはこんなことにかかわりあっている暇もないし、興味もない。
★2002/11追記)現在では羽仁説子で検索すると多数でるよう。になっているので、研究する人には便利になりました。
★羽仁説子と市川房枝の名前が並んで出ることも多い。市川の文に「子ども」表記は見られない。子供と書いている。研究者はここをもっと調べることだ。


毎日新聞2004年10月17日(土)生活 いきいき 家庭欄の「はてなの玉手箱」の記事です。(このあとは、どんどん新聞、出版、街角の表示なとから子供が減って、子どもが増えていった。民主政権のときはひどいものだった。国立国語研究所のいうことを他の省庁がきかないのだから、国家公務員の世界もでたらめだとわかる。やっと今日是正されることになったようだが、はたして・・・・・(2013/9/12))

「子供  子ども それとも こども」
 「子供」「子ども」「こども」−−いくつも表記があるけれど、どれが正しいのだろう。それとも、好みで使い分けてよいのだろうか。語源や使い方の違いについて、調べてみることにした。(松村由利子)

◇多いのは?
 インターネットでの書籍販売業「アマゾン・コム」のサイトで検索すると、書名に「子ども」を含む本は2270冊出てくる。「子供」は1589冊、「こども」は1274冊。検索エンジン「ヤフー」でサイトを調べても、「子ども」が付くものは3572件と、1000件台の「子供」「こども」を引き離している。
 なぜ、「子ども」なのか。「日本子どもを守る会」(東京都千代田区)に会の名称について尋ねると、「二代目会長だった羽仁説子が、会の創設された1952年当時から『子ども』という表記を提唱していたので」という答え。
 教育評論家だった羽仁氏は、エッセーで度々「供とは従者の意」と述べ、「子ども」と表現することで、大人の従属物ではない独立した人格としてとらえようとした。
 「子どもの文化研究所」「日本子どもの本研究会」「子どもの文化・教育研究所」なども、「『供』はおともの供だから」「こどもは大人の添え物ではないから、供という字を書くのはよくない」と、「子ども」が望ましいとする。

◇正しいのは?
 国立国語研究所(東京都北区)の甲斐睦朗所長は、「もともと『ども』は複数を表す接尾語で、『こども』は子の複数形だった。しかし、それがだんだん大人の対義語となり、1人でもこどもと呼ぶようになった」と説明する。
 古い表記を見ると、万葉集の山上憶良の歌には「胡藤母(こども)」がある。奈良時代から室町時代までは「子等」、近世に入ると「子共」が多く見られる。ほかにも「小供、児供、児等」などいろいろな形がある。
 甲斐さんは「こどもは大和言葉であり、たまたま『供』があて字として使われただけ。『子供』という言葉に、付録的な意味や見下げるような意味はありません」ときっぱりと言う。
 それでは、なぜ世の中には「子ども」がこれほど多いのか。
 小学校で「供」を習うのは6年生だ。5年生までの教科書には、「子ども」と書かれる。
 「だから学校関係者は『子ども』をよく使うのではないか。6年生以降の教科書は『子供』と表記される」と甲斐さん。教科書や法令、公用文書を書くときの基準とされる常用漢字表には「供」が含まれ、用例として「子供」もあるからだ。

◇あなたは?
 「はれ、ときどきぶた」シリーズで知られる児童文学作家の矢玉四郎さんは、「子供」派だ。6年前に、文章の中の「子供」が、出版社の編集者に「子ども」に変えられたのをきっかけに、表記について調べ始めた。
 戦後まもなく創刊された雑誌のタイトルは、「子供の科学」「子供の時間」「子供の広場」など「子供」ばかりだ。それが、ここ20年ほどで「子どもの読書」「子どもと教育」など「子ども」がどっと増えた。
 矢玉さんは「教育現場では『子ども』と書くように強要されることも多いらしい。お供の供だからダメ、というような誤った考えで、『子供』が排除される状況があるのはおかしい」と話す。
 月刊「子ども論」の発行人、落合恵子さんは「子ども」派。「言葉の成り立ちや語源は分かっていても、供の字に引っかかってしまうんです。語感は人それぞれなので、ほかの人に押し付けるつもりはありませんが、私自身は『子供』は使いたくありません」
 「漢字と日本人」「お言葉ですが…」など言葉に関する著書の多い高島俊男さんは、「子供」「子ども」の両方を使う。
 「子供はあて字で、そう書くのは単なる習慣。文章にひらがなが多いと見た感じが親しみやすいので『子ども』を使うことが多いが、字数制限がある場合は『子供』にすることもあります。ひとつの文章に違う表記が混在するのは嫌なので、統一するようにしていますが」
取材の中で、児童書出版社の編集者が「こどもは文集に埋没してしまうし、子供だと硬い感じなので、見た目がやわらかい『子ども』を使う」新聞社の「用語集では「子供」を使うことになっているが、私も仕事以外の文章では、いろいろ使う。言葉の成り立ちを知っていれば、どの表現を使っても心強いと思った。(毎日新聞2004年10月17日朝刊より転載)


●2004年当時新聞でこの件を取り上げたのはこれだけ。だが家庭欄だし、内容もゆるい。新聞の多くは文化欄では無視してきた。法律家も教育学者も文化に携わる者が皆無視してきた。というより、都合が悪いのでだんまりになっていただけ。2013年にやっと文科省が動いた。民主政権の時に急激に「子ども」表記が国や地方自治体などで定着してしまった。これを修正していくのはくだらない作業となるが、子供たちの将来、後代のために決着をつけておくべきだろう。単に一語の問題ではない。新聞も滅亡の危機。(2013/11/25)


★関連文献を紹介します。(2003/1/10)

続国語断想 (産経新聞 平成14年10月2日)

             校閲部長 塩原経央氏の文 (ここへの引用については、それとなく許可をもとめておきました。まるまるですが・・・矢玉)

 平成十年十一月二十三日付の本紙朝刊で「コドモは『子供』と書くべきだ」という一文をしたためて、「子ども」などという表記は採るべきではないと警鐘を鳴らしたが、見ているとその愚かな表記がじわじわ広がり、増えこそすれ減る様子を見せていないのはまことに嘆かわしい限りだ。

  ただ一人、児童文学者の矢玉四郎氏がご自分のウエブサイトで「子ども教の信者は目をさましましょう」と、「子ども」という表記の不可なるゆえんを説いて、孤軍奮闘されている。
 日ごろ、わが国固有の伝統文化を重んぜよと説かれている側の知識人の中にすら、無警戒に「子ども」と書いている人がいて、その所論の尊敬すべきであればなおさら泣きたい気持ちになる。この問題を矢玉氏だけに丸投げしておくわけにはいかない。
 意識的に「子ども」に書き換えようとしている戦後民主主義というパイアスのかかった人権派や、彼らにくみする言論機関ならいざ知らず、保守陣営の人々までが深い考えもなく「子ども」と書く近ごろのなりゆきを見て取れば、私もまた矢玉氏の驥尾(きび)に付し弓矢を取って参戦しないわけにはいかない。再論す、子供は「子ども」と書いてはいけないと。

 私たちは長い年月をかけて漢字仮名交じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。これを可能にしたのは、漢字を受け入れたときに、私たちの祖先が漢字という圧倒的な先進文化が用いている言葉の中にのみ込まれず、わが国語の中に漢字を取り入れる工夫をして、それに成功したからにほかならない。

 その工夫の一つは仮名の発明である。これによって、漢語にはない用言の活用語尾、助動詞、そして゛てにをは゛を書き表すことができるようになったのだ。それも平仮名と片仮名の二つの体系を発明したことが、どれほど国語を分析的にし、近代的観念行為に堪えられる言語にしたか思い返してみるべきである。

 工夫の二番目は、漢字語彙(ごい)を国語の文の構造の中に大量に取り入れて活用したことである。それは今日の外来語と同じで、漢語の字音そのもの、つまり外国語のまま取り入れたのではなく、わが国で識別できる字音に換えて受け入れたため、漢字語彙を容易に国語語彙として定着させることができたのだ。国語語彙の増大がまた、国語を近代的観念行為に堪えられる言語にしたのである。

 工夫の三番目は、わが国の言葉を漢字を用いて表記すること、つまり字訓を発明したことである。これが漢字の持つ表意性をそのまま国語に反映させることができた秘訣なのだ。
 国語のハという音節が表す「端」や「歯」、また「葉」や「羽」や「刃」は、そうした漢字を用いることによって語としての分節を安定的にすることができたのである。これが仮に「ハ」または「は」のような音節を表す書き方市かできない言語であったとしたら、ハは未分化のまま容易には分節することができなかったに違いない。歯も葉もハと読んで区別できない。それが未分化ということだ。

 国語の和語を漢字で表すということは、つまりはそうした知の進化の営みなのだ。子供を「子ども」に書き換えるのは、「子供」と書いて成立したチャイルドもしくはチルドレンの意を表す語の分節を「子」と接尾語「ども」に還元して、知を退化させてしまう行為にほかならないのである。しかも、この接尾語ドモは、女ども、ばか者ども、貧乏人どもなどと用いるように、侮蔑感が込められているから、「子ども」と書くのは「ガキメラ」同様、子供をさげすむ差別的表記でさえある。

 矢玉氏のウエブサイト「子ども教信者は目をさましましょう」には、氏の日本共産党への質問状に対する党中央委員会の回答というものが載っている。それによると「しんぶん赤旗」で七〇年代後半から「子ども」という表記をしているのは、「民主主義と人権の運動のなかで子どもは、戦前のように、おとなの『お供』でも、神仏の『お供え』でもない、人権を持った人間だという考えにもとづいています」ということだ。
「子供」の供が「お供」の供だというのは難癖もいいところだ。「子ども」と書いた方がよっぽど子供をばかにした書き方ではないか。

「子供」の供は「お供」の供でもなければ、「お供え」の供でもない。訓の一致することをもって借りた当て字に過ぎない。国語の漢字表記には当て字など珍しくもないし、当て字ではあれ漢字で書くことによって語として自立し安定化するのだから、子供を「子供」と書くのは国語の智恵というものだ。
 矢玉氏も指摘しているが、「大人も当て字で、大(おと)人(な)でも、大(お)人(とな)でもない」。子供を「子ども」のように書くのは、大人を「大な」や「おと人」と書くのと同じだと認識すべきである。

 日本文化の伝統を愛する諸氏に言いたい。「子ども」と書くのは空虚な゛人権派゛の流儀にくみする愚行であると。
    (校閲部長 塩原経央)


★矢玉注  まあとにかく、大新聞でこの問題をとりあげるのは、この人だけという情けなさに涙が出る。塩原氏も戦後生まれのようだが、旧かな推進の戦前生まれの人も、そろそろ死んでいく。きっちり発言してから死んでくれ。私が「心のきれはし」で取り上げたところ葉書をくださった古山高麗男さんも、「季刊ぱろる」の文に賛同し「私も子どもとは書けません」と葉書に書いてくださった矢川澄子 さんも亡くなってしまった。旧かな組だろうと、人権派だろうと、右翼だろうと、仏教徒だろうと、クリスチャンだろうと、根本の言語の問題でレベルが低すぎるのだから、「お話にならない」というのはこのことだ。さらに言語問題は即「心」の問題なのです。(2003/1/10〕

★「てにをは」とはなんだ?助詞のことだとは、だれでも知っているのだが。「へとにをは」とかいうのならわかるのだが???
「て」ってなんだ?辞書を引くと「オコト点」だの「博士家」だのとあるけど、ますますわからなくなった。宿題!本居宣長へ行かなくてはならないのだが、そんなひまねーよ。(平成15年1月19日)
★「オコト点」は「ヲコト点」でした。「ヲ」と「コト」です。10年前から仏教の勉強をはじめたので、お経を解読する。漢文なので返り点や、テニオハを漢字の横に書き込む。親鸞聖人の書かれたものも見ることができます。
日本語の表記を語るには、歴史を知らなくてはだめで、それも学校では教えない日本仏教史をやらなくてはわからないことがわかった。(2012/11/17)


●この二三十年で日本人の頭は腐った
 上に立つものの傲慢と、下にいるものの盲従。日本のあらゆるところで、この図式が見えてくる。ますますひどくなっていく。あやまった教育のせいだ。
 
『人類の歴史のなかで、他国の侵略によって、その民族独自の言語をうばわれた国も多いだろう。他民族を征服した王の仕事は、まず首都の構築、元号、暦の改定、言語の改変などだ。空間を改め、時をしばり、言葉を奪う。                
 昭和二十年代に、日本も言語を奪われそうになった。天皇制とともに、辛うじて、日本人が日本語を使うことを許された。私達はこれを天に感謝しなければならないだろう。
「子供」はだめだ、「子ども」と書けというのは、征服王の傲慢と変わるところがない。 過去、何人の人達が、何度「子供」と書いてきたか、想像してみたことがあるのか。言語は王の一存で決まるものではない。多くの人が繰返し繰返し使っていくうちに、承認されて、心の伝達の道具となる。』(『心のきれはし 教育されちまった悲しみに魂が泣いている』ポプラ社刊より抜粋)

 「子供」も多くの人が使ってきた。私が子供のころは、子供会があって、地域の子供は全員が子供会に入っていた。小学生で子供という字を読めないものなどいなかったろう。二才の子にも、だれかが「コドモと書いてあるんだよ」と、読んでやっただろう。
 供はわずか八画だ。子供にとっては「ども」と平仮名で書くよりやさしい。視覚的な認識も楽だ。マッチ八本で書ける。どもをマッチで書けるか?
 平仮名のほうが漢字より楽というのはうそだ。  

★文科省の教師向けの指導要領も、「子ども」だったのが「子供」に変わったという情報をいただいた。
★産経新聞はハンドブックに「子ども」と書くなとの一項を入れたという情報をいただいた(2002/1/1)
★毎日新聞は「子供」を積極的に使うようになりました。
★TBS筑紫哲也ニュース23が「子供」と漢字使用。(2002・1・10)


子供を音読みするとシキョー、スク。頭にショックを受けましたか?教育されて、自分がなにも考えていなかったことを知らされる。頭の使い方を学びましょう。私が「子ども表記」問題にこだわる理由です。

「子ども」と書いたらガキドモ。差別語だ。という標語をかかげたのは、「子供」は良くないという売り言葉に対する買い言葉だ。
子供と書いたら文句をいわれると恐れている人、流れは変わりました。堂々と子供と書いてください。

インターネットの世界では「子ども」と書くと批判される。逆の流れとなってきました。古い印刷媒体と、新しい媒体の文化の衝突現象です。思想的ふきだまりの児童、福祉、生活家庭関係の人は、他の分野の変化を感じて、逆に他の分野の人は、これに関心を寄せて発言してほしい。2011/4/4)


★あらためて柳田国男の「こども風土記」(昭和21年朝日新聞刊)を読んでみた。柳田翁はそのわずか百年前の祖先の文章が読めないことをなげいている。おろかな言葉いじりは文化の破壊だということを認識して欲しい。「(大昔から未来まで)続いて絶えない母と子の問題であるがゆえに・・・」とある。
岩波文庫でも読めるが、とんでもない改竄本である。ちくま書房版などと比較されたい。(2004/9/22)

「コラム言いたい放題」ナンバー196『「子供」か「子ども」か』はじめから、これがあれば苦労しなくてすんだのに。
★上記ページは教育者家本芳郎さんのホームページでした。2004/2/7メールでリンクしたことをお知らせしてあります。
コラムの意見には賛成するところもあります。コラムナンバー24「あゆみ出版の倒産」など、ここまで書ける人はすくないです。これは評価します。教育界の内幕がわかってびっくりしますね。(2004/2/8)

★文化審議会の「交ぜ書きをなくす」答申がでたが効果なし。( 2004/8/29)


★柳田國男「こども風土記」の研究
こども風土記 柳田国男

こども風土記 本文

古書店で偶然手に入った本です。なかなか見られないと思いますので、ここにコピーしました。
発行は朝日新聞社。初版は昭和17年ですが、これは昭和21年9月、つまり終戦一年後の再版。
題名は「こども風土記」ですが、本文は見てのとおり「子供」。ところが、昭和16年に書かれた序文だけは「子ども」となっています。
今はほとんどの人が岩波文庫版(1976年初版)で読むでしょう。ところが朝日新聞社版と比較すると、これがとんでもない欠陥書だとわかります。筑摩書房版があればそれと比較してみてください。
★岩波版の後書きにはこの朝日新聞版を参照したと書いてあります。
上のページの「大人から子供へ」を読んでいきます。

朝日版 「大人から子供へ 兒童に遊戯を考案して與へる」
岩波版 「大人から子どもへ 児童に遊戯を考案して与える」

旧仮名使いを新仮名使いにすることは認められる。國男も国男とするのもまあ仕方ないだろう。
だが、本文の中の「子供」をすべて「子ども」と改竄していることは、認められない。学問的にお粗末なことといわざるを得ない。しかも「すべて」ではない、ところどころに「子供」が残っているのだ。およそプロの校閲ではない。
そのうえ変なことに表紙にある説明文は「子供」使用で、1999年秋の岩波文庫一括重版の帯では書名まで「子ども風土記」としているのだ。出版社としては考えられないミスだろう。これが天下の岩波書店の実態です。

私は岩波書店の悪口をいいたいのではない。仏典や古今の哲学書、日本の古典を手軽に読めるのはまったく岩波文庫のおかげです。だが出版の基本的な原則を忘れて恣意的に読者をへんな思想へ誘導しようという考えは改めて頂きたい。信用をなくすだけだ。
くれぐれもいっておきたいことは「権威に盲従するな」ということだ。近頃は逆に「権威」を利用して「読者を盲従させて」本を大量に売って儲けることばかり考える人が出版社で力を持っているように見える。短期的には成果をあげても、それは滅亡への道となることは歴史が教えてくれる。
「権威に盲従しない」ということは、自分で一字一句を確かめるということだが、そんな暇はないので、カンをやしなうことだ。眼力をつけるようにする。人間を追求することで人間の陥りやすい過ちのパターンをつかむことができる。

「こども風土記」には、現在の子供問題を是正するためのヒントがある。現代の日本人がなにを失ってきたのかがわかる。柳田がなげいてから、すでに60年の歳月が過ぎてしまった。どんどん悪くなった。とにかくまず、その字句を正すことから始めましょう。


★岩波書店には、このことを広く世間に知らしめ、過去の誤りを誠実に正されることを要請したい。
 現在の社員はあずかり知らぬことかもしれないが、このままではまるで柳田が「子供」を避けて「子ども」を積極的に使っていたような印象となる。読者はそう思いこんでいるだろう。おそらく当時(1976年)の編集者や、かかわった専門家と称する者が、「子ども」表記を推進するために、柳田の権威を利用しようとしたのだろう。専門家として恥ずかしい。現社員諸氏の良心と勇気に期待したい。柳田が行く末を案じた未来の日本の学問と、次世代のためにお願いしたい。 
(2004/9/23)


●参考
ことば逍遥記  いろいろ勉強になります。ら抜きや熟字訓などの項もあります。
田上貞一郎さん
せっかく育てた子供達がトップにリンクしてある「面白半分」現役教師のホームページ

えのきどいちろうさんが 「子ども」と書き直させられそうになった体験。そもそも私の「子ども表記」発言の発端が「子どもプラス」という雑誌名です。
「はれときどきぶた」をいち早く評価してくれた教育評論家の斉藤次郎氏が雑誌「三輪車疾走」を発展させて、この雑誌名を考えているときに、私は丸一日かけて、「これから子ども表記のあやまりを世間に訴える。斉藤さんに恥をかかせてもいけないので」と、長文の手紙を書いて雲母書房宛に出した。このホームページを立ち上げる以前の話です。返事なし。
それにしても、インターネットはすべてを暴き出す、印刷や放送ではこうはいかない。
榎戸さんのいうよう「非常にまじめな教育誌」だからだめなのだ。斉藤次郎氏が、逃げずに、これを乗り越えることを期待する。子供関係の論者は、あの人もこの人も覚悟が出来ていない。ゆるい発言ばかりだ。だから、子供状況は良くならない。
近年ニュースネタになった斎藤次郎さんの復活を願いたい。偽善を廃し、かえって鋭い評論が出来るのではないか。
鐸木能光氏のコラム

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ぶたごやへかえる おつかれさまでした。